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2.男
朝、父が帰って来た。正直、永遠に帰って来なければいいと思っていた。
おばさんの予想通り、父は酒の匂いをさせていた。こんな時に言いたくはないが、帰りが遅いとまた暴れるかも知れない。
そう思って、今日も帰りが遅くなると話した。
父は、狂気に憑りつかれた様な顔をして目を見開いた。
ニナは、思わず後ずさる。
「男か。お前、男が出来たんだろ。俺と言う夫がいながら、エリサ!」
「な、何言ってるの、父さん」
「お前、俺を捨てたらどうなるか……。分かってるだろうな。ガキを殺すぞ」
ニナは、息を呑んだ。
「隠れても無駄だ。必ず見つけ出して殺してやる」
父は、ヒイッヒイッと引き笑いをして、咳き込み、泣き出した。がしりとニナの両肩を掴んだ。
ニナはびくりと身体を震わせた。
「俺を見捨てるなよ、ニナ」
「み、見捨てる訳ないよ、父さん……」
父は、どこか遠くを見る様に微笑んだ。
「今日も遅くなるんだな。分かった。しっかり稼げ。な、ニナ」
「う、うん」
父は、気が済んだようにゆらりとニナから離れる。
ニナは、震えながら家族に行ってきますと声を掛け、出て行った。
ニナは、洗濯の仕事を終えると、男のアパートに来た。
ドアの前に立つと、家に置いて来た妹の顔が心に浮かんだ。
強張った顔で、それでも姉に心配をかけまいと、行ってらっしゃいと言ってくれた。
ニナは、妹と弟は可愛かった。
あの男さえいなければ――。ニナの心の闇が囁いた。
父を殺す所を想像した。どこかの階段から突き落とすか。寝込みを包丁で刺すか。これまでも何度となく想像したが、その度に恐ろしくなった。出来る気がしなかった。
父は、以前は大工をしていた。現場での怪我と母の死が重なって、働かなくなった。身体はなまっているし、右手の親指の先が無い。右足も引きずっている。それでもニナの身体の倍は大きいという事実は変わらない。
ニナは、溜息をついた。
ノックをすると、間もなくドアが開いた。顔を出した男が途端に不機嫌な顔をする。
「来ました」
「あんたさあ、顔に出てるの分かってる?」
ニナは何も説明する気は無かった。
「失礼します」
そう言って中に入った。
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