あまい果実

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 かしゅ、と果肉に歯を立てる。瑞々しい甘い果汁は、歯の隙間から滲み出して舌に絡みつき、私を至福の世界へといざなう。 「んー、甘い! 幸せだぁ……」秋野くんが作る果実は、やっぱり甘くて美味しい。スーパーのものとは比べ物にならない。 「幸せって、そんな大袈裟だよ」口をもごもごと動かしながら、秋野くんは照れ臭そうに微笑んだ。彼の口の中で、果肉の弾ける音がする。それだけで、もう食べ終えてしまった私の唾液が、舌の表面からじわりと染み出してくる。  テーブルの上の、丸みあるガラスの器。そこはもう空っぽで、透明な水滴が器の内側に残っているだけ。もう、彼の甘い林檎はない。 「あーあ、無くなっちゃった。秋野くん、また持って来て、ね?」私は懇願する仕草をしながら、彼の焦茶色の瞳をまっすぐに見つめる。くすり、と彼が笑う。そして、腕を伸ばし、大きな掌で私の頭をゆっくりと撫でる。巾着で絞られたみたいに、きゅうんと胸の奥が音を鳴らす。秋野くん、大好き。その響きが、果てしなく頭の中を占領する。 「有り余るぐらいたくさんあるから、いつでも持って来るよ。というか、もう水希のものにもなるんだし、いつも食べ放題みたいなもんだろ。それと、俺のこと『秋野くん』て呼ぶのやめよう。水希も秋野になるんだし。いい加減、晃平って呼んでよ」今度は彼の方が、甘えた瞳で私に懇願してくる。もうっ、かわいいなぁ。  私は来月、彼と結婚する。秋野水希になる。確かに私も秋野になるのに、夫になる人を『秋野くん』と呼ぶのは、なんかおかしい。しかし、ずっとそうやって呼んでいたから、今更名前なんて……すごく恥ずかしい。 「……こ、晃平……くん」彼を見ないで俯きながら、蚊の鳴くような声で呟いた。 「何? 聞こえないよ、水希」イタズラな表情をした彼が、私の顔を覗きこんでくる。ああ、また、からかわれてるなぁ。口を大きく開ける。次こそはちゃんと言うぞ、そう決意をして顔を上げる。 「晃……へ」その瞬間、あたたかいぬくもりが、むにゅりと口元を塞いだ。熟れた果実の匂いがした。「ちょっ、秋野、くんっ、まだ、言ってる最中……」と慌てた私の言葉を塞ぐように、再び柔らかなものが触れてくる。  ふわと舌の上にのっかる果実の甘み。それに混じるように絡む彼の体液。林檎味のキスだった。林檎の水分で冷やされた口内は、だんだんと熱を帯びていき、回数を重ねるたび、頬も耳たぶまでも火照っていく。  ああ、私はなんて幸せなんだろう。赤い果実にも似た熟れた頬を、厚みある胸板へと寄せる。彼の匂いに包まれる。この上ない至福を感じる。幸せすぎて、怖いぐらいだ。私は彼の背に両腕を回して、ぎゅうと抱きしめた。  * 「はあー、空気がきれい!」すうっと息を吸うと、穢れのない新鮮な空気が肺を満たしていく。気持ちいい。深呼吸を繰り返したあと、小高い丘から広大な果樹園を見下ろす。緑の色彩が、永遠と広がっている。そこにたわわに実る真っ赤な果実。今私の眼前には、たくさんの林檎の木が所狭しと立っている。 「水希、気に入っただろ?」作業小屋から出てきた秋野くんが、私の肩を叩き、隣に並ぶ。私は林檎園を見下ろしながら、「うん」と頷く。  ここは、彼の果樹園だ。行方不明になった祖父から引き継いだ果樹園。彼が引き継いでからはより甘さが増し、今では有名な品種となっているらしい。確かに、彼が作る林檎は格別にあまい。私はその林檎を、彼と一緒に大切に育てていくのだ。 「この果樹園は、じいちゃんが遺してくれた宝物だ。水希と一緒に、これからも大切に育てて行こうと思う」 「私にできるかな」これだけの敷地に咲きほこる果実を、こんな私が一緒に作っていけるだろうか。不安の澱が心に溜まっていくのを感じる。ふいに、指の間に絡んでくるぬくもり。 「大丈夫だよ。二人で頑張って行こうな」大きな体温が、ぐっと私の手を包みこんだ。それだけで、あっさりと不安の澱がどこかへと消え去っていく。 「うん、頑張って行こうね。晃平くん」決意を示すように、彼の掌を握りかえす。苦労してきた分厚い手には、潰れたマメや細かい傷が多いし、随分荒れている。けれど、あたたかくて優しい。私は、この手が狂おしいほど愛おしい。 「水希。採れたての林檎、食べる?」  私たちは丘から降りる。私が滑らないように、彼はゆっくりと手を繋いで誘導して行く。若草色の作業着が、日の光に滲んで、新緑の樹々の中に溶けこんでいく。今私は、力づよく引かれている。  人生を一緒に歩く、という事。それは、きっとこういう感じなんだ。どちらかが、先に歩いて行くんじゃない。手と手を結んで、お互いのペースに合わせながら共に生きていく。ねぇ、晃平くん。そういう事なんだね。 「水希、ちょっと待ってて」離れていった手を追いかけるように、右手を宙に彷徨わせる。すると、ぽん! と滑らかな塊を掴んだ。甘い匂いが漂う。つるつるの質感と丸みを帯びた形。 「はい、採れたてをどうぞ」 「ありがとう」林檎を両手で握り、鼻先に寄せた。瑞々しい匂い。新鮮な甘さがぎゅっと濃縮されている感じがする。採れたてを丸かじりなんて、贅沢すぎる。しかも、彼の作る果実を。  キスをするように、赤い表面に優しく唇を触れ、カプリとかぶり付いた。じゅわりと湧きでてくる液体。少し泡立ったあまい果汁が、舌の上を転がると、崩れた果肉が口内で溶けていく。しゅくしゅくした林檎のカケラが、滑らかに喉を通り過ぎていく。 「美味しい。いつもと全然違うよ。瑞々しいし、数倍も甘く感じる」赤みも違う気がする。やっぱり、採れたてが一番美味しいのかな。 「だろ? 水希のために、甘そうなものを選んだんだ」少し自慢げに言う彼が微笑んだ。彼は林檎のことなら、何でもご存じなのだ。きっと、私よりも相思相愛なのかもしれない。手に持ったあまい果実にわずかな嫉妬を感じながら、次は勢いよくかぶり付く。次は甘みより、なぜか、胸が痛くなるような哀しみを感じた気がした。何だろう、この味は。微かに苦味も感じる。どうしてか、彼に訴えたくて、隣にある横顔を見上げた。  彼は遠い場所を眺めている。その視線は、樹々を飾る林檎たちに向けられているんじゃない。果樹園、そのものをぼんやりと目に映している。その瞳の奥には、哀しみの他に、何か得体の知れないものが宿っているようにも感じる。怖くなって、私は目を逸らす。えっと、と私は口を開く。 「ど、どうして、晃平くんの林檎はこんなに甘いの? 何か秘密があるのかな」  ——しばらくの沈黙。秋めいた朗らかな風が、すーっと頬を掠めていく。林檎の香りが私たちを包み込んで、その甘い魔力に縛られていく感覚がする。 「肥料に秘密があるんだ」ぼそりと呟かれた言葉。なぜか、すごく凍てついた響きだった。 「ひ、肥料?」 「うん、特別な肥料なんだ。じいちゃんの望みだったんだよ。だから、叶えてあげた」 「どういう事?」おじいちゃんの望んでいた肥料を手に入れ、もしくは作り、使っているということ? 隣で、彼が不気味に笑った気配がした。 「俺がじいちゃんに引き取られたの、知ってるよね?」  こっくりと私は頷く。それは知っている。だいぶ前、彼が話してくれたから。彼が10歳の時、両親が事故で亡くなったことも。彼はこの果樹園を経営している祖父母に引き取られ、育てられる。大きくなると果樹園を手伝うようになり、いずれ自分がここを継ぐのだと決めていた。それから祖母が亡くなり、五年ほど前に祖父が行方不明になってしまう。それから、彼はたった一人で、この果樹園を経営しているのだ。祖父母が大切に育てた林檎を、誰にも触らせたくないからと、彼は誰の手を借りることもなく一人で育ててきた。 「じいちゃん、本当にこの果樹園を愛していたんだ。自分が育てた〝紅鬼(べにおに)〟という林檎を」彼の目は、たくさんの赤で染まっている。密集した樹々からぶら下がる丸い果実——紅鬼に取り憑かれている。そう感じる。 「じいちゃんの望みだったんだよ……だから、仕方がなかった……じいちゃんが言ったんだよ。死ぬ前に、俺に。この場所に埋めて欲しいって」 「えっ?」私は慌てて、彼の顔を見上げる。感情のない瞳から、透明な涙があふれ出している。彼は泣いていた。 「この場所が好きだからって、埋めて欲しいって懇願したんだ。やがて自分の血肉が溶け、紅鬼のためになるからって。じいちゃんは死んでも、役に立ちたいと考えていたんだ。それだけ、紅鬼を愛していたから。だから、それを叶えてあげたんだよ……」 「え、叶えてあげたって……亡くなったおじいちゃんを、ここにう、埋めたの?」答えることなく、彼はまた涙を流し、頭を抱えるような仕草をする。 「じいちゃんは病気だった。死ぬことが分かっていたから、俺にそれを頼んだんだよ。じいちゃんが亡くなって、俺は死ぬほど悩んだ。どうやったら、一番紅鬼のためになるか。そして、一つの考えに辿り着いたんだ。それは、じいちゃんを埋めるんじゃなく、粉砕してばら撒くことだった。そうした方が、直接紅鬼の栄養になるって思ったから」 「ふ、粉砕?」  彼はふいに顔を上げる。園の土をゆっくりと一望する。そして、哀しげな目を細め、静かな笑みを浮かべる。 「そう、肉や皮は丁寧に剥ぎ、すぐに腐ってしまう内臓は全て抉りだした。肉も皮も内臓も、全部燃やして炭にした。そうしたら、砕けるだろう? 骨格は砕き、すり潰した。粉状にすると、なんて小さいんだろうって思った。じいちゃんの身体、あんなに大きかったのに。不思議だろう? そ、それでね、粒になったじいちゃんを、この果樹園にばら撒いたんだ。撒き散らした、パラパラと。何回かに分けて散布した。今日の朝、最後の肥料(じいちゃん)を撒いた。肥料を撒いてから、紅鬼が赤みと甘さを増し、格別に美味しくなった。不思議だろう? じいちゃんの強い想いが紅鬼に宿り、いい栄養になったんだと思う。すごいだろ? なあ、水希……」そこまで一気にしゃべった彼が、私の方を振りかえる。もう、私には彼が何を言っているのか、分からなかった。手が震えた。足も震えた。私は彼を見られない。 「水希、ははっ、俺が怖いの?」はははっ、と低い笑い声を響かせる彼。動けない。怖いだけなのか、それとも聞き間違いだと思いたいのか、体が石のように固まっている。彼の言葉を聞いただけで、眼前の林檎畑がおぞましい光景に変わった。血のような赤さが、緑に浮かぶ赤い点が、束になって網膜に襲いかかってくる。はああ、と隣でため息が聞こえた。 「お、俺も、じ、自分が怖いよ……ずっと、この真っ赤な鬼に呪われてきたんだ。あまく、あまく、鬼が育てば育つほど、俺は壊れていくような気がした。じ、じいちゃんに憎まれているんじゃないかと。今日やっと、最後の肥料を撒いて、この呪いから逃れられるんだって思ってたけど……そうじゃないみたいだ」壊れそうに紡がれた言葉の語尾は、はっきりと力を持って私に届いた。その力づよさに顔を上げ、彼の顔を仰ぎ見る。  泣いていた。濃い樹液色の瞳から、絶え間なくあふれ出るしずく。後悔の涙なのか。哀しみの涙なのか。今頃になって、口の中にあの甘さが甦ってくる。ごめんね、と呟きが響くと、ヒュルリと首に何かが巻きついてくる。彼が目の前で、素早く両手をクロスする。 「まだ、肥料が必要なんだよ。水希、ごめんね。きっと、君は、ここの鬼を愛しているから、いい栄養になるはずさ! まだ、呪いは終わらないんだ……はははっ、鬼が生きつづける限り、ずっと、ずっと、呪いは生きつづけるのさ!」  ぎりぎりぎり。喉の骨が軋みを鳴らす。呼吸ができない……あまりの苦しみに唇を噛んだ。私は殺される、大好きな秋野くんに。目尻から生あたたかいものが垂れるのを感じた。 「あ、愛してる……水希」彼の顔は、たくさんの涙で濡れそぼっている。哀しみに歪んだ鬼が、そこには、いた。紅鬼。私は、抵抗しようとしていた手を引っこめる。食べかけの林檎が手の中から落ちる。  一番呪われていたのは、彼なんだね。この場所に来た時から、きっと紅鬼に呪われていたのかもしれない。両親が死んで絶望の中にいても、頑張って生きて行こうと思ってきた。この場所に来て、紅鬼という素晴らしい果実を知った。おじいちゃんに褒められるために、死ぬ気で手伝いをしていたのだろう。そうして、一人になって、余計この赤い鬼に囚われた。心を呪われたんだ。自分で砕いた肥料を撒きながら、彼は何を思っていたのだろう。真っ赤な実(からだ)を、ぶくぶくと膨らませていくあまい果実を見て、何を思ったのだろう。  全身の力が抜け、意識が遠のいていく……。愛する人の瞳には、今、息絶えようとする私が映りこんでいた。ほっと安堵する。今だけは、私を見つめていて欲しい。あまい果実じゃなく、この私を。  きっと、彼はずっと、この先も、あまい鬼に呪われていくのだから——。  柔らかな秋風に乗って、あまい林檎の香りが私たちの鼻先に届いた。 (了)
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