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(3)
「お前、字は書けるか?」
「おばあさまから教わりました」
「それなら安心だ。筆をとるがいい」
銀の猫が言うなり、文乃の手の中に筆が現れた。先の固まった古びた筆だ。先ほどまではなかったはずの筆を前に、文乃は首を傾げる。
「早く瘴気を吸い込め。お前がこいつらを取り込むのが先か、こいつらにお前が取り込まれるのが先か。俺は別にどちらでもいいぞ」
黒い物体を押さえつけている小さな前足を外されそうになって、文乃は慌てて筆を近づけた。
「ちゃんと全部吸い取れたな。よし、次は筆を使って書いていくぞ。このまま放っておくと、含みきれなくなった墨が溢れてしまう」
「墨が溢れるとどうなるのですか?」
「筆が壊れてしまうから、こちらの身体が傷む前に、お前に墨を移すよ。そうしたらお前も『曰くつき』の仲間入りだ」
「そんな!」
「さっさと言うとおりにすれば問題ない。ほら、構えろ。頭の中に浮かんだ物語を、文字に書き起こせばそれでいい」
筆を持たされたところで、書くべきことなど頭の中に出てこない。そう思った文乃だったが、唐突に知らない記憶が次から次に頭の中に溢れ出てきた。情報の洪水だ。
小さな山村で暮らした記憶に、帝都の屋敷で過ごした記憶。大和の国ではない異国の城での記憶に、海の底を漂った記憶。違う時代、違う場所で、違う人々に愛され、慈しまれ、けれど最後は必ずひとりぼっちになってしまう悲しい記憶だった。
「これは一体」
「早く書き留めねば、お前の気が狂うぞ」
文乃が宙に筆を構えればするすると文字があふれ出した。空中に文字をつづれば、不思議なことに自動的に手触りの良い和紙に書き写され、勝手に綴じられて床に溜まっていく。
「飾り皿として、外国の家から家へ譲られるのはもううんざり。また昔のように、美味しい料理をたくさん載せて、みんなの笑顔が見たいものだわ」
出来上がった本をしげしげと見つめていると、自分の知らない気持ちが口からついて出た。訳がわからない。
「なるほど。古伊万里の皿の話から書き留めることにしたのか。あれはわかりやすい性格をしている。練習にはちょうどよい」
「あの、どういうことですか」
「おい、筆から墨が滴り落ちるぞ。死にたいのか。さっさと次の話に取り掛かれ」
「はい!」
そうしてひたすらに書き続けたものが山と積みあがった頃、文乃の頭の中は静かになった。仕事を終えた筆はどうしたことか、新品のように白く輝いている。
「もう、動けません」
「よく頑張った。ここまで忙しいのは今日限りだ。身体を休めるがいい」
文乃には詳細を尋ねる気力など残っていなかった。天鵞絨のような滑らかな毛皮に手を伸ばす。文乃は銀色の猫を抱き、久しぶりにぐっすりと眠った。
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