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「ひすい、っ、翡翠!っ会いたかったっ!」
思いっきり腕を引かれてどんっ、と彼の身体に倒れ込んだ瞬間、呼吸が止まるほど力強く抱きしめられた。
「え、ちょっと、」
なに、なんで。何が起きた?
僕の肩に埋められた蜂蜜色から、ずっと探してたと涙に震えた声がする。
状況が全く理解できなくて、頭の中は真っ白。どうしていいのかわからずに、強すぎる抱擁の中で身体は固まってしまっていた。
「えっと、……翡翠のお知り合い?」
父さんと彼の父親だろう人も状況についていけずにぽかんとしていた。
何が何だかさっぱりわからない。
けれど、どうやら僕はこの人にこれだけは言わなきゃいけないみたいだ。
「ごめんなさい…………誰?」
僕の方に埋められていた顔が、勢いよく上げられた。
「は?」
蒼穹の色を宿した瞳が限界まで見開かれる。
その手が僕の両肩を掴み、ガクガクと力任せに揺さぶられた。
「緋葉だよ!ひよう!まさか……覚えてないのか!?」
肩に食い込む指が痛い。逃げたくなるくらい鋭い視線は、緋葉と名乗ったこの人が決して嘘や冗談を言っているわけではないとわかる。
だけど、本当にわからないんだ。
「ごめんなさい。」
傷つけるとわかっていても、僕にはそう告げることしかできなかった。
「あの、僕達どこかで会ってるの?」
「な、何言ってんだ!俺達、せ…」
何かを言いかけ開かれていた口がピタリと止まった。
言葉はごくりと飲み込まれ、目の前の蒼い瞳は見開かれたまま、何故か背後を振り返り父さんへ。
「?」
首を傾げる父さんに、目の前の男は、あ、いや、と言葉を濁した。
肩を掴んでいた手が、ずるりと脱力して落ちる。
「…………なんでもない。」
「え?」
俯いて絞り出された声は、どう考えたってそんな一言で済まされるもののはずはないのに。
「ごめん、俺の勘違いかも。」
「え、でも、」
名前を呼ばれた。
会いたかった、探していたと、あんなに真剣に、瞳には涙すら滲ませて。
勘違いなんてありえない。それはわかるのに、わからない。目の前のこの人が誰なのか。
「あの、」
「あー、勝手に騒いで悪かったな。」
ぽんぽんと僕の肩を軽く叩いて、彼は何事も無かったかのように背を向けた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。
「えっと、奏川さんでしたっけ?よろしくお願いします。」
父さんに向き直った彼は何事も無かったかのようにぺこりと会釈する。
「あ、は、はい。こちらこそ、親子共々よろしくお願いいたします。あのこれ…、つまらないものですが、」
「ああ、ご丁寧にどうも。」
ぽかんとしたまま父さん差し出した菓子折の袋を手に取り、彼は白い歯を見せて笑った。
「あの、」
「それじゃ、俺達はこれで。」
何も言えないまま、聞けないまま、彼は最後に一度だけ僕の方を振り返り、そのまま玄関の奥へと消えてしまった。
残されたのは首を傾げる父さんと、ざらりとこの身にまとわりつく後味の悪さ。
「えっと……、上の方にもご挨拶に行こうか。」
「……そうだね。」
何も悪いことなんてしてない。だけど、僕の心臓は鉛でも飲み込んだみたいにずん、と重かった。
多家良緋葉……彼はいったい何ものなんだろう。
「……積雪の家、か。」
「ああ、俺は四つ、翡翠が三つの時だった。……ガキの頃の一歳差ってこんなにデカいものなのか?俺は、こんなにはっきり覚えてるのに。くそっ、」
困惑する僕達が立ち去ったその後で、102号室の玄関がガンッと力任せに蹴り飛ばされていたなんて、当然僕は知る由もなかった。
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