隣人さん、はじめまして?

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なんでだろう。初対面のはず……なのに、この人といても変な緊張も不快感もない。 ちゃんと話、できるかも。 この人となら、気負わずにちゃんと話ができそうな気がする。なにより、この人には聞きたいことが多すぎるから。 「あの、多家良(たから)さん、」 思い切って名前を呼べば、一瞬にして彼の口元はムスッとへの字に曲がる。 隔壁からぐっ、と身を乗り出してきてビシッと鼻先に人差し指を突きつけられた。 「ひ、よ、う。歳ひとつしか変わんねぇんだから、かしこまらなくていいんだよ。」 ひとつ、ということはこの人は二十歳なのかな。というか、僕の歳やっぱり知ってるんだ。 「えっと、ひ、……緋葉(ひよう)、」 照れくささと気まずさから蚊の鳴くような声になってしまったけれど、初めて口にした名前はしっかりと彼の耳に届いたらしい。 おう、と嬉しそうに蒼穹が細められた。 その優しい視線がなんとなく気恥かしい。 「ひ、緋葉と僕はどこで知り合ってるの?あの、その、僕本当に覚えてなくて……」 勘違いだったと言われたけれど、そんなはずないってことはわかってる。それなのに僕の記憶にこの人がいないことは本当に申し訳なくて。 何かとっかかりがあれば思い出せるかもしれないと思ったのだけれど、緋葉は首を横に振った。 「もういいんだって。こうして会えたんだから十分だろ。」 「っ、でも、ずっと探してたって。」 あんなにも真剣な瞳を、声を、無かったことになんてできない。僕はきっと大事なことを忘れてしまっていて、緋葉を深く傷つけているはずなんだ。 それなのに、もういいんだと緋葉は笑った。 「生きててくれたって、わかっただけで十分だよ。」 「え、」 優しい瞳がキョトンと口を開けた僕の顔から胸元へとおろされる。 「身体、大丈夫か?夜中に発作起こしたり、めまい起こしたりしてないか?」 思わず息を飲んだ。 「なんで、」 まさか、そんな。 緋葉は、そんなことまで知っているというのか。 無意識のうちに己の胸に手を当てていた。 僕の肌に今も僅かに残っている手術痕を、部屋着の上からそっと撫ぜる。 「……知ってる、の?」 「ガキの頃だったから病名とかよくわかってなかったけどな。心臓に穴が開いてたってのは知ってる。」 心臓、正しくは心室中隔(しんしつちゅうかく)という場所。 生まれつき、僕の心臓に開いていた小さな穴。 物心着いた時には穴を塞ぐ手術は既に終わっていて、僕は年に一度の検診と、激しい運動を控えていれば普通の子供と変わらない生活をおくれていた。 だから、この事は家族しか知らない、誰にも話していない事……のはずだったのに。 「あ、別に同情とかそういうんじゃないからな。ただ、翡翠(ひすい)の元気な顔見たくて俺が勝手に探してただけ。」 だから、もういいんだ。 そう言われても、僕は何一つ納得できなかった。 過去に一度会ったとか、そんな次元じゃない。この人は、僕という存在の深層まで知っている。つまりは、過去の僕がそれを彼に話したということ。 忘れたと切り捨てていい相手では絶対にない。 「……どこで会ったの?なんで僕を知ってるの!」 気がつけば僕の方が身を乗り出していた。 けれど緋葉は僕の口元に人差し指を伸ばし、しっ、と小さく囁いた。 「ほら、音楽聞こえねぇだろ。」 だから、この話はもうおしまい。言外に言われてしまって、言葉を失う。 緋葉はそれきりベランダの錆びついた手すりに身体を預けて夜空を見上げ、僕の方を見ようとはしなかった。 「お、この曲も聞いたことあるな。なんかのCMのやつだ。」 小さく聞こえるバイオリンに合わせて緋葉は曲を口ずさむ。 決して上手いとは言えない鼻歌は、もう何も言ってくれるなという緋葉の無言の拒絶。これ以上尋ねることも、謝ることすらも、許してはもらえない。 僕はただ、月明かりに照らされた蜂蜜色を隣で見つめることしかできなかった。 知りたい。この人のこと。 知っているのだろうこの人のことを、思い出したい。 知らないはずの記憶は僕の胸を酷く騒がせ、とっくに治っているはずの心臓がチクリと痛んだ。
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