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4.
「先生カラオケ行こうよー」
「行くわけないでしょ、軽率に先生をカラオケに誘わないっ!」
ホームルームが終わった教室内は生徒たちの声で賑わっていた。蒼太が出席簿を抱え教室を出ようとした時、数人の女子生徒に声をかけられる。
「えー?別にいいじゃん」
「そうだよ、どうせ先生暇なんでしょ?」
女子生徒達は蒼太の周りを囲い、楽しげな声で蒼太に笑いかけていた。蒼太は「そんなことないから、先生めちゃくちゃ忙しいの!」と一人の女子生徒の頭に手を置き、そのまま職員室へと足を進めた。
三年生の一クラスを受け持っていた蒼太は、かなり生徒に人気のある教師だった。特に女子生徒からの好感度は高く、今みたいに話しかけられることも蒼太にとっては日常茶飯事だった。若者たちと気軽にコミュニケーションを取る事が出来る、そんな教師という職業を蒼太自身そこそこ気に入っていた。
職員室の扉を開け自分の席へと座った蒼太は、今日一日を何事もなく過ごせたことにホッと安堵を覚えた。昨日の衝撃を未だに引きずってはいるものの、仕事には影響が出ていないみたいだ。
ふとした瞬間に、藍の姿が蒼太の脳裏に映し出される。数年ぶりに想い人である男と再会した事実は、蒼太にとって刺激が強すぎた。もう二度と会うことはないと思っていたのだから、それも当然だった。今や人気アイドルである藍が同級会に参加していた、それだけでも信じられないというのに、蒼太は藍の家にまで上がり込んでしまったのだ。
「佐々木先生、ちょっといいですか」
学年主任に呼び出された蒼太は「あっはい…っ」と急いで立ち上がった。
「実は佐々木先生に会いたいとおっしゃられてる方が来られているんですが、少し会っていただけませんかね」
「俺に会いたい…?一体どなたですか?」
身に覚えのない話に、蒼太は首を傾げる。
「私もよく存じ上げないんですが、どうやら芸能関係の方みたいで」
蒼太は不審に思いながらも、そのまま学年主任の後へとついて行った。
会議室へ通された蒼太の目に、一人の男の姿が映る。歳は三十代後半ぐらいだろうか、男は黒縁の眼鏡をかけ、黒いスーツを身にまとい小綺麗な風貌をしていた。蒼太の姿を確認した男は立ち上がると「佐々木蒼太さんですか?」と第一声に蒼太の名前を口にした。
「はい…私に何かご用でしょうか?」
「私こういうものです」
男は蒼太に名刺を差し出した。名刺を受け取った蒼太が目を通すと、そこにはタレントマネージャーと記載されている。
「マネージャー…さん…?」
「はい、私黒井と申します。佐々木さんは水樹藍のことはご存知ですよね」
男の口から藍の名前が発せられた途端、蒼太はバッと顔を上げ「藍…っ?」と男の顔を見た。男はにっこりと微笑むと「まぁ立ち話もなんですし、とりあえず座ってお話しましょうか」と目を細めた。
「改めまして、芸能プロダクションにて水樹藍のマネージメントをしております、黒井と申します」
黒井と名乗った男はどうやら正真正銘藍のマネージャーらしい。しかし藍のマネージャーが何故わざわざ足を運んでまで教師である蒼太の元へ訪ねてきたのか、なかなかに理解し難いことだった。
「あの…藍のマネージャーさんが一体私なんかになんの用があるんですか…?」
「藍の活動はご存知ですか?」
「え、あ、はい。えっと…アイドルでいいんですよね…?」
藍の活動自体そこまで詳しくはなかった蒼太は、戸惑いながらも確信的な情報だけを口にした。
「そうですね、大きく括ればアイドルという枠組みなのは間違いないです。しかし最近の藍はアイドル活動以外にドラマやバラエティ、コマーシャルなんかにも出演していて仕事の幅は大きく広がっています」
「へぇー、確かにテレビで見かけることは増えましたね」
藍のことをなるべく避けていた蒼太でも、ふとテレビをつけたら藍がいたなんてことは多々あった。黒井の言う通り、藍はアイドル以外にも様々なメディアで活躍しているらしい。
「そうなんですよ、有難いことに色んな方面から声をかけられることも増えて仕事の幅も年々広がっているんです。それで最近はモデルの仕事なんかも増えてまして」
「へぇ、モデルですか。まぁあいつスタイル凄くいいからピッタリですよね」
蒼太はうんうん、と頷く。藍は細身で身長も高く、それに加え足も長い、頭一つ分抜けている藍のスタイルの良さならモデルという仕事は適任であろう。
すると、黒井は「そうなんです、藍はモデルに適任なんですよ」と俯いてしまった。
「あの…っ大丈夫ですか…?」
俯いたままの黒井を心配に思った蒼太は、腰を浮かせ黒井の顔を覗き込もうとした。すると、黒井は勢いよく顔を上げ「実は藍は写真映りがとても悪いんです…っ!!」と蒼太に向け訴えるように声を上げた。
「…えっ?」
「ライブやバラエティの時は自然な表情でいるし、藍は演技もとても上手いんです…っなのに写真となるとどうして…?ってぐらい不自然で…笑顔なんて見れたもんじゃないっ」
熱意のある黒井の訴えに蒼太は圧倒されつつも、確かに高校時代の藍も写真映りは良くなかったな、と思い出す。藍は写真に映る度、いつも微妙な笑顔を見せるのだった。普段の藍も本当の藍では無く、感情が乏しい藍の演技に過ぎない笑顔なのだろうが、友人達と笑いあっている藍の笑顔はごく自然だった。なのに何故か写真となるとぎこちない、毎度友人達からも写真映りが悪いことを弄られていたような気もする。
「もういっそあのカメラマンが悪いのかと思えてきて…だって他の仕事では普通なんですよ?なんで写真だけあんなに苦手なんだろうかと頭を悩ませているんです」
「あの…事情は何となく理解出来たんですけど、何故そんな話を私に…?」
座り直した蒼太が疑心の瞳を黒井に向けると、黒井は「佐々木さんは美術を担当されているんですよね?」と問いかけた。
「…?はい、そうですけど…」
「そして写真部の顧問であると?」
黒井の話そうとしている事が未だに理解出来ていない蒼太は「それと何が関係あるんですか…?」と頭を傾げる。
「佐々木さん、藍の専属カメラマンになって頂けませんか?」
「…へ?」
真剣そのものだと物語っている黒井の瞳に見つめられた蒼太は、黒井の言葉を理解出来ずにいた。藍の専属カメラマンとは、一体この人は何を言っているのだろうか。
「すみません…ちょっと言葉の意味が…」
「ああすみません、突然こんなこと言われても困りますよね」
「私があの藍を撮影するということですか…?」
「その通りです!藍はカメラを向けると何だか身構えてしまうようで、緊張なんですかね?とにかく表情がぎこちないんです。だから藍の高校時代の友人であった佐々木さんなら藍もリラックスして撮影出来るのではないかと…」
黒井が全てを言い終わる前に「いやいやいや!!俺にはカメラマンなんて無理ですよっ!!」と蒼太は全力で否定した。この人は本気で何を言っているのだろうか、と蒼太には黒井の考えが到底理解出来なかった。
「そんな事ないですよっ!それにこの写真っ、佐々木さんが撮られたんですよね?」
「…っこれって…っ」
スマホを操作し始めた黒井は一つの写真を蒼太に見せた。そこには見覚えのある藍の姿があり「何故この写真をあなたが…?」と蒼太は困惑するように言葉を述べた。
「大晴君のことはご存知ですよね…?彼から貰ったんです」
「大晴が?」
大晴の名前を聞き、蒼太はやっと納得した。黒井が蒼太に見せた写真は、高校時代に蒼太が撮った藍自身の写真だった。今でも大切に保管しているその写真は、当時大晴に見つかり俺にもくれとせびられ渡したのものと同じだった。経緯は謎だが、その写真を大晴が黒井に渡したという事なのだろう。
「この写真を最初に見た時驚きましたよ、あの藍がこんなに写真映りがいいなんて」
黒井は写真を改めて凝視した。確かにこの写真は蒼太本人でさえも認める傑作だった。夕日をバックにカメラに視線を向け、ほんのり口角を上げている藍、儚くも繊細で美しい藍の姿がそこにはあった。
「こんな素敵な藍の写真を撮れる人は佐々木さんぐらいしかいないんです」
「しかし…この写真だって高校時代にたまたま撮れただけのものだし…やっぱり私には無理ですよ」
蒼太は自信の無い瞳で目を伏せる。あの写真だって蒼太からしたらたまたま撮れたものにしか過ぎなかった。自分だから取れた訳では無い、そんな風に自惚れる事は蒼太には到底出来なかった。
「そんな事言わないでくださいよっ!あなただけが頼りなんです…っ」
「だって私なんて素人もいいとこですよ?こんなど素人が藍のカメラマンなんて無理ですよ!」
「でも佐々木さんは美大を卒業されてますよね?それに写真のコンテストでも受賞歴がおありじゃありませんか」
黒井は蒼太の学歴まで把握していた。黒井の言う通り美大卒の蒼太は一時期カメラをいじっていたしそこそこいい賞を貰ったことだってある。それでもモデルを撮影出来るようなプロのカメラマンと呼べるほどではなかった。そんな自分が藍のカメラマンとして相応しいとはとてもじゃないが思えない。
「私みたいな素人が藍を撮っても酷くなるだけですよ。あの写真みたいに撮れる確証なんてないのに…絶対プロに任せた方がいいに決まってる」
「プロに任せた結果があれなんです。お願いします佐々木さん、私は藍の才能を無下にしたくない、一度でいいのでやってみては頂けないでしょうか…?」
蒼太が断固として断っても黒井が引くことはなかった。藍のカメラマンとなる、これが現実となればまた藍と関係を築くことができるのではないだろうか、という考えが蒼太の頭の中にあった。そのため蒼太の心は揺れていた、自分なんかがカメラマンなんて無理だと思っている反面、また藍のそばに居る事が出来るかもしれないという下心が蒼太を誘惑する。
「本当に私なんかでいいんですか…?上手くいかなくても怒りません…?」
「怒りませんとも!!お金だってきちんと払いますし、どんな結果になっても佐々木さんを責めることは絶対しませんよ!」
藍の事になるととことん弱くなる自分の意思に呆れつつも「分かりました、その仕事受けます」と蒼太は返事をした。
「本当ですか!!ありがとうございますっ!!」
「でも…一つだけいいですか…?」
「なんでしょう?」
蒼太はすぅっと息を吸うと「私…藍に嫌われてると思うんですけど、私がカメラマンだと知ったら藍は仕事を受けないと思います…」と口にした。
「あっ…えっ…?そうなんですか…?」
「はい…まぁ色々ありまして、そもそも藍が仕事を受けてくれなかったらどうするんですか…?」
蒼太の不安を他所に、黒井はなんてことない顔で「ああ、それなら撮影直前まで佐々木さんがカメラマンであることは藍には黙っていましょう」と微笑んだ。しかしそんな黒井の提案は根本的な解決にはなっていないのでは、と蒼太は不審に思った。直前まで黙っていたとしてもどうせバレるのなら何も変わらないだろう。
「藍はそう簡単に仕事を投げ出すような人間ではないので安心してください、大丈夫ですよ」
今の蒼太には黒井の言葉を信じるしかなかった。そのため「…分かりました」と不安な気持ちを抱えたまま蒼太は頷いた。
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