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「えっと…ここであってるのかな…」  次の休日、藍のカメラマンとしての仕事を引き受けた蒼太は大きなビルの前で足を止めた。緊張した面持ちで自動ドアを通り中に入った蒼太は、受付らしき場所を見つけ足を運んだ。 「すみません、佐々木蒼太と申します。黒井さんはいらっしゃいますか?」 「はい、少々お待ちください」  受付の女性は上品な笑みを浮かべると、内線を取りだしどうやら黒井を呼び出してくれているらしい。  受付の前で蒼太がしばらく待っていると「佐々木さん!」と黒井の姿が見えた。 「いやー、今日はわざわざありがとうございます」 「いえいえ、本日はよろしくお願いします」  エレベーターで三階まで上がり、そのまま蒼太は黒井の後に続いて歩みを進めた。初めて来る場所というのはどうにも落ち着かず、きょろきょろと辺りを見渡していた蒼太に「こういう所は初めてですか?」と黒井が問いかけた。 「ええ、私の人生ではなんら関わりがないですからね。貴重すぎる体験です」 「そうですか、カメラマンになろうとは思っていなかったんですか?」 「興味はありましたけど狭き門すぎて、結局は本気で目指せていなかったですね」  蒼太はあはは、と自身の頬をかいた。幼い頃から美術に関心があった蒼太はカメラにも興味を抱いていた。シャッターを切る度に変わる物の写り方に、蒼太はなんて面白いのだろうと心を奪われたものだ。けれどプロとの壁は大きく、結局は諦めることとなった夢の一つにしか過ぎなかった。そのため、実は蒼太自身今日の撮影を少し楽しみにしていた節もあった。もちろん緊張や不安の方が遥かにまさってはいるが、わくわくとした気持ちも持ち合わせていた。  しばらく黒井の後をついて行くと、行き止まりである扉の前で黒井が足を止めた。「こちらがスタジオです」と言い扉を開けた黒井に続いて、蒼太も中へと足を踏み入れる。  スタジオ内は至って普通の撮影スタジオと呼ばれるような空間だった。撮影スペースには物が何も無く、真っ白な空間で埋め尽くされているだけだった。  中では既に数人のスタッフが準備を始めており「おはようございます」という黒井の声にスタッフ達も反応し、各々が「おはようございます」という挨拶を口にする。 「本日カメラマンを務めてくださる佐々木蒼太さんです」 「あっはい、本日カメラマンを務めることとなりました佐々木蒼太と申します。本日はよろしくお願い致します」  黒井の紹介に蒼太は深々と頭を下げた。一通り挨拶も済んだところで「ちょっと藍を呼んできますね」と蒼太に言い残した黒井はスタジオを出て行った。  一人取り残された蒼太は、先程黒井から渡された高そうな一眼レフカメラをまじまじと見つめる。このカメラでこれから藍を撮影する、なかなかに現実味のない今の状況に蒼太の緊張はかなり高まっていた。  誰がこの状況を予想出来ただろうか、もう二度と会うことはないと思っていた男と数年ぶりに再開し、あろう事かその男のカメラマンとして抜擢される。蒼太にはまるで予想など不可能であった。  ふぅー、と一呼吸おいた蒼太は自分を鼓舞するように軽く胸を叩いた。  ──大丈夫、落ち着け俺。 「水樹さん入られまーす!」  ガチャリと扉が開く音と共にスタッフの声がスタジオ内に響き渡る。そしてスタッフと黒井の後ろで圧倒的なオーラを漂わせた藍がスタジオに現れた。  今日の藍は撮影ということもあり、しっかりとメイクも施されていた。女性と比べるとかなりナチュラルな仕上がりだが、色つきの良い艶やかな唇にはリップが塗られているのであろうと感じ取れるような透明感を感じた。セットされた髪型も襟足がぴょんと跳ねており、なんとも可愛いらしかった。  そして、首元まである赤いニットが藍にとても似合っていた。露出部分がほとんどないのにも関わらず、すらっとした藍の身体のラインはしっかりと感じることが出来、清潔感のある色気が藍にはあった。  やはり藍は美しい、そう再認識させられたように藍に釘付けになっていた蒼太は「佐々木さん」という黒井の声で我に返った。 「藍、今日撮影を担当してくれる佐々木蒼太さん」 「…本日はよろしくお願い致します…っ!」  藍の元へ歩み寄った蒼太はなるべく藍の顔を見ないように勢いよく頭を下げる。正直今の蒼太には藍の顔を見ることが恐ろしくて仕方なかった。  数秒の沈黙の後、藍の口から「は…?」という低い声が漏れた。 「ちょっと待って黒さんなんでこいつがいんの?俺聞いてないんだけど」 「いやー、前もって言ったら絶対断るじゃん?だからギリギリまで言わずにおいたのさ」  あはは、と能天気に笑っている黒井に「はぁ?!ふざけんなよ?!!」と藍は掴みかかる勢いで詰め寄った。 「こいつが撮影すんの?!いやいやいや!無理!!俺ぜっってぇやだ!!」  スタジオ内に藍の大きな声がよく響く。他のスタッフ達も何があったのか分かっていないようで、藍の取り乱した姿に少し困惑しているようだった。 「わがまま言わないでくれよ藍ー、藍の昔の同級生である佐々木さんなら藍もリラックスして撮影に臨めると思ったんだよ」 「はぁ?!リラックス出来るわけねぇだろ?!そもそもこいつ相手に撮影とか…」  チラリと蒼太の姿を捕らえた藍の瞳と目が合う。藍の不機嫌丸出しなその瞳に蒼太の身体は無意識に縮こまっていた。  藍の反応は蒼太の予想通りのものだった。藍から好かれていない自覚がある蒼太に撮影されるなど藍は絶対嫌がる、そんなこと分かりきっていた。  こんな様子じゃ撮影どころじゃない、助け舟を求めるように蒼太は黒井の顔を見た。 「藍、お前の都合で仕事をキャンセルするのか?」 「…っ」 「お前のわがまま一つでで今日現場に来てくださってる方全員の時間を無駄にすることになるんだぞ、それでもプロか?」  黒井の真剣な声色に、藍は口ごもるように黙ってしまった。そして「嵌められた…」と黒井の顔をキッと睨みつける。 「嵌められたっ!!俺が断れないように直前まで黙ってたんだな?!何が次の撮影は絶対上手くいくだよ!ほんっっと最悪っっ!!」  藍はまるで駄々をこねる子供のように、黒井に向けて 怒りをぶつけた。そして諦めたかのように大きなため息を一つつくと「帰りに焼肉奢ってよっ!!」と言い放ちそのまま撮影スペースまで足を進めた。 「俺が思っていたよりも佐々木さんは藍に嫌われてたみたいだね」  呆れたような黒井の言葉に「はは、そうですね」と蒼太は乾いた笑いを発した。  黒井の言う通り藍は仕事を断ることはしなかった。相手が蒼太だとしても流石に仕事をドタキャンするような自分勝手さは藍にはなかったようだ。自分が嫌なことは断固として避ける藍でも、仕事に対する姿勢はしっかりとしており、如何に仕事に真摯的に取り組んでいるかが理解出来る。 「じゃあ撮影始めます」  蒼太が声を出すと周りに緊張感が走り出した。その場にいる全員の視線が一斉に藍に向き、蒼太まで緊張してしまいカメラを持っている手が無意識に震えた。  カメラの使い方などは予め聞いていたため何も心配はなく、後は自由に撮ってもらって構わないと黒井からは言われていた。それでも経験値が足らなすぎる蒼太からしたらどうしたらいいものか、何も分からなかった。  ドクン、ドクン  自然と激しさを増す自身の鼓動の音に、頭が支配されるようだ。集中しようとすればするほど、自分自身の鼓動の音と周りの人間の鼓動の音が混ざり合ったノイズに蒼太は侵食されていく。  ──うるさい…うるさい…。 「蒼太」  その時、突然藍が蒼太の名前を呼んだ。ハッとしたように蒼太はカメラから視線を外し、藍の姿を見た。 「早く撮れ」  蒼太を見つめるその瞳は爛々と輝いており、撮影に臆することのない藍の堂々たる姿に蒼太はゴクリと生唾を飲み込んだ。  不思議なことに周りの雑音が蒼太の頭から消え去る。まるで自分と藍しかいないと錯覚してしまうこの空間で、お互いがじっと見つめ合う。  蒼太は再びカメラを覗き込み、シャッターに指をかけた。  カシャッ、カシャッ  シャッター音が響き渡る中で、蒼太は無我夢中で藍の姿をカメラに収めていた。瞬きさえも惜しいと感じるこの瞬間に、蒼太は言葉にし難い高揚感を抱き始める。  藍の右手が細い腰に当てられたことにより、しなやかな腰のラインがより強調され美しさを際立てた。シャッターを切る度に少しずつ変化をつけていく長く細い手足、そんな些細な動きでも見逃さないため蒼太は藍から決して目を離せない、離したくなかった。  藍の仕草、表情、そしてカメラを通して向けられる視線、それら全てが視覚の暴力かのように蒼太を虜にさせた。思わず溺れてしまいそうな感覚に蒼太は口元をきゅっと引き締める。  この時間がどれほど幸福なものなのか、蒼太は身を持って実感したような気分だった。 「いやー!やっぱり素晴らしいですよ佐々木さん!」  数秒前までパソコンの前で画面を凝視していた黒井は、興奮気味な様子で勢いよく顔を上げた。  撮影から三十分程が経っただろうか、一度小休憩を撮ろうという話になった。長い間カメラを構えていたため腕が痺れたような感覚に眉を寄せた蒼太は、腕を軽く振りながら「俺にも見せてください」と黒井の元へ足を進めた。チラリと横目で藍の姿を捕えると、少し離れたところで一人座りスマホを眺めている。どうやら自分がどのように撮られていたのか、写真の出来は気にならないらしい。 「見てくださいよこの藍の姿!」 「…おぉっ…」  パソコンの画面を覗き込んだ蒼太の口から、思わず感嘆の声が漏れ出た。画面に写っている藍はなんとも美しかった、かっこよかった、色っぽかった。自分で撮ったのにも関わらず拍手を送りたくなるような出来に「俺ってカメラマンの才能あるんですかね?」と蒼太は自惚れた笑みを零した。 「モデルがいいんだよ、モデルが」  すると、先程まで椅子に座っていた藍がいつの間にか蒼太の真後ろまで来ており、軽く足を蹴られた。 「痛っ、蹴ることないだろ?!」 「…ふーん、まあまあだな」  蒼太の事を無視した藍はマウスに手をかけ写真を一枚一枚眺め始めた。本人に見られると妙な気恥しさがあり、居てもたってもいられなくなった蒼太は「えっと黒井さん、こんな感じで大丈夫でしょうか?」と黒井に話しかける。 「大丈夫もなにも完璧ですよ!私はカメラに詳しくないので詳細には説明出来ないんですが、どの写真も藍の良さが引き立っているように感じるんです。ほら、これとか藍のスタイルがすごく際立って見えますし、いやー流石ですね」  感心したように蒼太を褒めだした黒井に「そんなことないですよ」と蒼太は照れくさい気持ちで微笑んだ。するとへへ、と頬をかいた蒼太を見た藍は不機嫌そうに瞳を細めると「自惚れるなよ」と蒼太の足をわざと踏んずけた。容赦のない藍の態度に、学生時代のような懐かしさを覚えた蒼太は「足踏んでるから!」と言いながらもどこか嬉しいような高揚感を感じる。 「でも次が問題なんですよね…」 「次が…ですか?」  顎に手を当て、真剣な面持ちでいる黒井に蒼太は首を傾げた。 「次はどういった写真を撮るんですか?」 「笑顔ですよ」  黒井の一言に、今しがた黒井が言わんとしている事が理解出来てしまった蒼太は「それは…確かに問題ですね」と眉を下げた。
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