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5.
黒井から連絡が入って来たのは、あの撮影から二週間程が経った頃だった。『お話があります。今日そちらに向かおうと思うのですが、ご都合大丈夫でしょうか?』という簡潔なメッセージ、次の仕事の話だろうかと予想した蒼太は『大丈夫です。お待ちしております』と返信した。
「先生さようならー!」
「はいさようならー」
一日の授業が全て終わった蒼太は、生徒達に笑顔で笑いかけ教室を出ていった。いつもならそのまま職員室か写真部の部室である美術準備室に向かうのだが、今日は違っていた。会議室の前で足を止めた蒼太は、ノックをし「はい」という声が聞こえると共に扉を開けた。
「蒼太くん、お疲れ様です」
「お疲れ様です黒井さん、わざわざありがとうございます」
黒井の姿を確認した蒼太は、黒井の向かい側の席に腰を下ろした。
「いやー、お忙しい中すみませんね。今日は蒼太くんにお願いがありまして」
引っ掛かりを覚えた蒼太は、話を進めようとした黒井に「ちょっといいですか?」と物申した。
「なんか…随分フレンドリーになりましたね…?」
蒼太は先程から抱いていた違和感を黒井に指摘した。ついこの前まで下の名前で呼ばれていなかったはずなのに、黒井は蒼太のことを蒼太くんと呼んでいる。急にどうしたのか気になってしまい指摘せざるを得なかった。
「ああ、すみません無意識でした…っ、藍の前では蒼太くんと呼んでたのでつい」
「そうだったんですか、でもなんで藍の前だけ?」
「いやー、藍に佐々木さんって言っても誰って言われたもんで。佐々木じゃ分かりずらいから蒼太って呼んでって指摘されたんですよ」
まさかの真実に蒼太は唖然とした。自分は藍に苗字すら覚えられていなかったのか、と蒼太はショックを受ける。
「いきなり呼び方変えられてもあれですよね」
「いや、俺は別に構いませんよ。それに俺の方がかなり歳も下ですしね」
蒼太としてもそっちの方が親しみやすかったため、呼び方はそのままでいいと伝えた。仕事上の付き合いだとしても、お互いフレンドリーな方がやりやすい事だってある。
「ありがとうございます。じゃあ改めて蒼太くん、今日はお仕事の話があって来ました」
黒井はコホン、と一度咳払いをすると「そのですね…」と話しずらそうに目を泳がせている。一体何を話そうとしているのか、黒井の態度に蒼太は若干の緊張を覚えた。
「すごく突然でかなり無理があるお願いなんですけど…二ヶ月ほど藍と一緒に暮らしてくれませんか?」
「…えっ…?」
黒井の言葉に蒼太の思考は停止する。聞き間違いではないだろうか、そう思った蒼太は「もう一度言ってもらっていいですか?」と再度黒井の言葉を求めた。
「藍と一緒に暮らしてほしいんです」
「あなたはなにを言ってるんですか?」
やはり蒼太の聞き間違いではなかったようだ。黒井ははっきりと、藍と暮らして欲しいと口にした。黒井の意図を想像も知り得ない蒼太はただ困惑することしか出来ない。
「こんな事急に言われても困りますよね…。順を追って説明するのでとりあえず聞いて貰ってもいいですか…?」
自分がおかしなことを言っている自覚が黒井にもあるようで、とりあえず蒼太は黒井の言葉に従うことにした。
「実はこの前とある番組で藍の写真集を出すことが決まったんです」
「写真集…ですか?」
「はい、それもただの写真集ではなく、藍の日常をテーマにした写真集なんです」
「藍の日常…」
蒼太は小さく呟いた。これはかなり、いやとてつもなく難しい仕事なのだろうと蒼太は察する。心做しか黒井の表情も疲れているように感じるのはきっと蒼太の気のせいではないだろう。
「普通の写真でさえも難しいのに日常だなんて…無謀すぎると思いませんか…?日常っていわば自然な藍の姿を写真に収めるってことで、写真が苦手な藍には酷なことなんです」
「確かになかなかに難しい話ですね。その写真集を出すことは絶対なんですか?」
「そうなんです…ファンのみんなにも発表してしまってるので今更出せませんとは言えなくて…。それに藍の写真集なんて需要しかないんだから実現させたいんです」
黒井の疲れきった表情から、相当今回の件で頭を悩ませているらしいのだと蒼太は感じ取る。アイドルのマネージャーも大変だな、と他人事のように考えている蒼太だったが、そこで何故自分が藍と一緒に暮らして欲しいという話になるのだろうと、一切話が繋がらない今の状況に尚のこと混乱した。
「あの、それで何故俺が藍と一緒に暮らすことになるんですか…?」
黒井は言いずらそうに一度目を伏せたが、覚悟を決めたのか蒼太の瞳をまっすぐと見つめた。
「実は…その写真集の撮影を是非蒼太くんにお願いしたいのです」
「俺に…?!」
蒼太は驚きの声を上げた。たった一度撮影を担当しただけの自分が、今度は写真集の撮影までも任されるとは考えてもみなかった。まだ藍と再開してから一ヶ月も経っていないというのに急展開が過ぎる。
「やはり藍を魅力的に撮れる人は蒼太くん、君しかいないんです…!」
「ちょっと待ってください!この間の撮影はカッコイイ藍の姿を意識して撮影したもので、今回の写真集のテーマは日常なんですよね?例えこの前の撮影が上手くいったものだとしても、素のリラックスしている藍の姿を写真に収めるのは俺でも厳しいですよ…っ!」
「蒼太くんの言い分もわかります…!そこでなんです、話は戻りますが藍と衣食住を共にしてもらって、距離を縮めて欲しいというのが根本的なお願いなんです」
蒼太の頭にハテナが浮び上がる。この人は何を言っているのだろう、という感想しか抱けず「距離を縮める…?」と蒼太は頭を傾げる。
「はい、藍と距離を縮めることで普段見せないような藍の表情も撮ることが出来るのではないかと。それこそ素の藍を写真に収めることが可能になるんじゃないかと私は考えているんです」
何となくだが、やっと黒井の目的が見えてきた気がした。つまりは日常をテーマにした写真集を出すために、素の藍の姿を写真に収めたい。しかし写真が苦手な藍の自然な姿を撮ることは困難なため、蒼太と藍を同居させ二人の仲を縮めることで写真集に相応しい藍の写真も撮れるのではないか、黒井の考えはざっとこんな感じなのだろう。
「黒井さんの意図はわかりました。だけど俺と同居だなんて藍は絶対拒絶しますよ、この前の撮影は何とか言いくるめられましたけど、今回は流石に無理だと思います」
元々の藍は一人を好むような男だった。そんな藍が誰かと一緒に暮らすだなんて耐えられないだろう。しかもその相手が蒼太となると、尚のこと藍は拒絶する事だろう。
しかし、次の黒井の言葉で蒼太の予想はまるで外れてしまったことになった。
「ああ、それなら大丈夫です。藍の了承はもう取ってありますから」
「…えぇ?!」
勢いよく立ち上がった蒼太は「嘘ですよね?!藍が俺と暮らすことを了承するなんて有り得ない!!」と叫んだ。
「嘘じゃないですよ、しっかりと藍のことは説得したんで」
「説得したって…一体どんな手を使ったんですか??!」
「いやー奥の手と言いますか…説得自体は俺がやった訳ではないし…」
もごもごと言いにくそうにしている黒井を横目に、蒼太は未だに信じられずにいた。藍が自分と同居することを承諾した、これが事実だとしたら藍の蒼太への感情が全く想像出来なくなってしまう。藍に嫌われているのだろうという認識があった蒼太は、藍が嫌いな奴とわざわざ同居なんて絶対にしないだろうと言い切れた。しかし現実の藍は蒼太との同居を受け入れたのだから、もう蒼太には藍の考えていることが何も分からなくなってしまった。
「まぁ、どうやって説得したかは一旦置いといて、後は蒼太くんの返事次第なんです。写真集の撮影、そして藍と同居だなんてかなり大変なことを言っている自覚はあります、しかし蒼太くんにしかこの仕事はお願い出来ないんです。君なら素敵な写真を撮ってくれると私は信じているんです」
黒井の瞳はとても真剣だった。蒼太は一度腰を下ろし、膝の上に置いた自身の手をギュッと握った。
藍と同居、蒼太にとっては魅力的過ぎる状況だ。好きな相手と一緒に暮らすことが出来る、たとえ仕事だとしても藍の傍にいる時間が増えることに変わりはない。蒼太は自分の欲望に逆らえるはずがなかった。
「わかりました、この仕事引き受けます」
「本当ですか!!?」
蒼太の返事に黒井は目を輝かせるほどの喜びを見せた。
「ありがとうございます!本当に助かります!!」
「だけど上手くいくとは限りませんよ、期待に応えられるとは…」
「そこまで気負わなくて大丈夫ですよ!駄目だった時は仕方ないんで」
蒼太を安心させるように黒井は優しい口調でそう言った。蒼太はふっと微笑むと「全力は尽くします」と意気込んだ。
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