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今日が終えようとしている感覚に、蒼太の身体には一日の疲れがどっと降り注ぐようだった。一度リビングに荷物を下ろし、そのままソファへ腰掛ける。
「はぁーやっぱりライブはいいなぁ」
蒼太と同様にソファに座った藍は、満足気な様子で腕を伸ばした。
「お疲れ様、藍」
蒼太は自分の気持ちとは裏腹に、藍に微笑みを向けた。
ライブの感想を一言で言うと、それはもう最高だった。ステージの上で観客からの熱い声援を浴びている藍の姿は、プロのアイドルそのものだった。蒼太にはキラキラと輝く藍の笑顔が眩しすぎるほどであり、綺麗な歌声も、可憐なパフォーマンスも全てが圧巻だった。藍がここまで人気を博している理由も納得してしまうほど、アイドルとしての藍は完璧だった。
ライブが終わり楽屋に戻った蒼太は、興奮した様子で春斗や周りのスタッフ達とライブの成功を喜びあっている藍の姿を目にした。「お疲れ様」と蒼太が口にすると、藍はステージ上と変わらぬ笑顔で「おお、ありがとな」と蒼太にお礼を言った。
藍の鼓動は激しかった、ライブ後だということもあり体力を使ったことで鼓動が早くなっていることも考えられるが、あの時の藍は心からライブの達成感を感じていたのではないだろうか。その証拠にも、打ち上げの際も藍の鼓動は普段とは違っていた。周りの者と楽しそうに話している藍の鼓動はかすかに弾んでいたのだった。
藍は心からライブを楽しんでいたのだろう。あの頃とは違い、今の藍に楽しいという感情もしっかりと持ち合わせており、藍は蒼太の知らぬ間に変わっていた。藍の本当の笑顔を自分が引き出そうと蒼太はしていたが、藍はとっくに自然と笑うことが出来ていたのだ。
「藍はさ、やっぱり感情あるよ」
蒼太がぽつりと口にする。すると藍は不思議そうに「急に何?」と蒼太を見つめた。
「お前は今日のライブ、心から楽しんでただろ?」
「…なんで?」
「俺にはそう見えたんだ。ライブ終わった後もお前は楽しそうに笑ってたし、鼓動だって弾んでた。お前は藍を演じてるって言ってたよな…?まるでアイドルの藍は別人のような言い方してたけど、アイドルとしての藍も今の藍もお前の一部であることは変わらないと思うよ」
感情のない藍は演じることで完璧な藍を作り上げていた。しかし今日の藍を見る限り、藍はアイドルとしての藍を演じながらも、本心で楽しんでいたように蒼太には見えた。もはや演じてすらいない、あれはただの藍なのではないかとすら思ってしまう。蒼太は本当の藍がいつかアイドルの藍に支配されてしまうのではないかと不安に思っていたが、どちらも本当の藍なのだからそんな心配する必要などなかったようだ。
藍は少し考え込むような素振りを見せ、ゆっくりと口を開いた。
「確かにお前の言う通り、みんなの前で歌って喋ってる時は、すごく胸が熱くなるんだ。それがお前らが感じる楽しいっていう感情と同じなら、俺はライブを楽しんでるのかもしれない。だから俺はこの仕事にこんなにのめり込んでるんだろうな」
「そっか…」
これは藍にとって喜ばしい変化なのだろう。蒼太だって藍が感情を持てた事が嬉しい、嬉しいはずなのにどこかモヤモヤとした気持ちが自分の中にあった。
「それは春斗さんのお陰なのかな…?」
「春さん…?んー…確かに春さんの存在は大きいな。あの人が隣に居てくれたから今の俺がいるんだろうし」
素直な藍の答えに、蒼太の頭が揺れた。蒼太の胸の引っかかりの原因は、やはり春斗という一人の男のせいだった。春斗が藍を変えた、藍に感情を与えた、この事実に蒼太は嫉妬していたのだった。
「俺より春斗さんの方が適任だったんじゃないかな…」
覇気のない声で蒼太が呟くと「何が…?」と藍は首を傾げる。
「写真だよ、春斗さんの方がきっといい藍の写真を撮ることが出来るよ。だって今日春斗さんと一緒に居た時の藍はすごく感情豊かだった」
藍は黙ったまま蒼太の言葉を待っていた。蒼太は一呼吸置き、言葉を続ける。
「藍は俺のこと嫌いだろ?嫌いな相手に対して自然な笑顔なんて見せれるわけないんだから、やっぱりこの仕事に俺は適してないよ」
長い沈黙が続く中、藍に弱音を吐いてしまったことに蒼太は唇をぎゅとかみしめた。自分になら本当の藍の姿を引き出すことが可能なのだと自惚れていたが、自分の他にも藍の本性を知っている人間がいて、しかも自分よりも藍のことを知っていた。最近はすっかり藍と普通に話せていたせいで忘れていたが、自分は藍に嫌われている、藍に嫌われている自分がこの仕事をやりきる事自体が無謀だったのだ。
長い沈黙に耐えられなくなった蒼太は「ごめん、今日はもう寝るよ」と言い立ち上がろうと膝を曲げた。
「待てよ」
藍が蒼太の腕を掴む。驚いた蒼太は身動きが取れず「藍…?」と名前を呼んだ。
「いつ誰がお前のこと嫌いだって言ったよ」
「えっ…?でも…お前は俺のこと嫌いでしょ?高校の時にお前の足を舐めたから…俺のこと気持ち悪いって軽蔑したんでしょ…?」
藍は蒼太の顔を一度見ると、ゆっくりと顔を下げ「あの時は悪かったな…」と謝罪した。
「えっ…」
蒼太の口から戸惑いの声が漏れる。蒼太には藍の謝罪の意味が汲み取れずに、ただただ困惑するしかなかったのだ。
「確かにあの時はマジで気持ち悪かったし、お前のこと信じらんねぇって思った。だけどやらせたのは周りの奴らだろ?その時のノリもあったし、全部がお前のせいじゃないのに結局は特に悪くもないお前を避けたんだ」
「いや…でもやったのは俺自身だしさ、お前に避けられるのは当然っていうか…」
「お前は優しいな」
蒼太の腕を離した藍は目を細め、もう一度蒼太をじっと見つめた。
「お前はもう俺なんかと関わりたくもないだろうって思ってた、だけどお前は俺のためにまた俺と関わろうとした。ほんとお人好しだよな」
「違う」
今度は蒼太が藍の手を握り、首を振った。蒼太の手を振りほどく事がなかった藍は、ただ黙って蒼太の言葉を待っている。
「今俺がお前といるのは自分のためだよ。学生時代お前に嫌われたと思って…だから俺もこれ以上藍に近づけなかった。だけど今こうしてお前と関わるチャンスが出来た、またお前とあの頃みたいになれるんじゃないかって」
「…変わってるよお前、急に縁も切られて…それに俺の本性も知ってるくせして未だに俺と関わりたいなんてさ」
ほんの少し眉を下げ、瞳を揺らめかした藍の姿が蒼太にはとても小さく見えた。誰の前でも堂々としているいつもの藍とは程遠く、今自分の前にいる藍は弱々しかった。蒼太は無性に藍のことを抱きしめたいという衝動に駆られる。これは下心などではなく、純粋な気持ちだった。蒼太が藍の肩に触れようとした時「嫌だったんだ」と藍が呟いた。
「お前に足を舐められて、男同士の悪ノリって分かってるのにすごく嫌だった、気持ち悪かった」
蒼太の胸に藍の言葉が鋭く突き刺さる。あの時の事を藍自身から聞いたのは初めてで、分かっていた事なのにいざ本人の口から聞くとまるで胸を抉られているような感覚だった。
「お前も俺に対してそういう感情を抱いてるんじゃないかって嫌でも疑っちまって…俺の妄想が独り歩きした結果なんだ、ごめん」
しばらく蒼太は言葉が出てこなかった。罪悪感という重みに潰されてしまうような圧迫感に襲われる。
蒼太は藍の腕を離し「お願いだから謝らないでくれ」と俯いた。
「なんでだよ、勝手に被害妄想してた俺が悪いんだから」
違う、藍は何も間違っていなかった。あの時蒼太は確かに藍に対して性的感情を抱いてしまっていた、いやあの時だけではなく、それ以前もそれ以降も今だってずっと蒼太は藍の事が好きだった。しかしこの事実を口にすることなど、蒼太には到底出来るはずがなかった。自分の気持ちを藍が知ってしまったら最後、今度こそ藍を傷つける、藍に嫌われる。
「藍がああいうの嫌いだって知りながら辞めなかった俺が悪いんだ、だからお前が謝る必要はないよ」
「…分かったよ。それと今は別にお前の事嫌いでは無いから勝手に勘違いすんなよな」
「うん…」
「あと、この仕事は最後までやり切れ。いいな?」
真剣な瞳で蒼太を見つめる藍に、蒼太は「分かったよ」と肯定するしかなかった。
「じゃあこの話はもう終わりだ」
立ち上がった藍はそのままリビングを出ていった。一人取り残された蒼太はソファに倒れ込む。
藍があの時のことを気にしていたとは思わなかった、そして藍に嫌われていなかったという事実に、本来の蒼太だったら両手を上げて喜んでいたことだろう。けれど自分自身の気持ちを隠し、藍を騙している自分に対してどうしようもない嫌悪感を抱く。今回の仕事だって完全に下心で引き受けたようなものだ。本当だったら藍と関わるべきではない、けれど藍のそばに居たいというわがままが蒼太を支配し、今の現状を変えたくはなかった。なんて狡猾なのだろうか、狡すぎる自分に蒼太は頭を抱えた。
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