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第一話
ウチの学校には、「天使」と呼ばれる女子生徒がいる。
別に翼が生えているとか、髪の色が白いとかいう特徴はない。ただ、その顔立ちは妙に人の興味と好意を誘っていた。
彼女の名前は白鳥咲希。俺と同じ二年四組で、いつも席に座り本を読んでいるタイプの女子だ。しかしその顔は幼い見た目に反して一般人とは一線を画した美しさをしており、口数の少なさと無表情からそんな異名が付けられた。
白鳥さんはクラスの男子だけでなく、学校中の男女からお近付きになりたいと思われているけれど、その美貌ゆえに尻込みして誰も関わることができていない。
そんな白鳥さんと、俺はたまたまプライベートで出会うことができた。
「えっと…白鳥さん、だよね?」
その日、俺はショッピングモールの二階にあるバイト先で仕事を終えて、いつも通り八時くらいに親の車で帰宅する予定だった。しかしその日はたまたま二階の駐車場が混んでいて、屋上の駐車場を利用することになったのである。
白鳥さんは駐車場の隅にある喫煙所のベンチに座っていた。十月の風は冷たくてサイズの大きなカーディガンを羽織っているが、中は黒い半袖と短パンで露出が多い。学校では清楚なイメージがあっただけに、俺は少しギャップを感じた。
「…誰?」
白鳥さんが低い声を出す。こちらを見やる視線は冷ややかだったが、そこには大した感情が含まれていなかった。
「あ、同じクラスの松田勇雅です。ども」
「あぁ、勇雅くんね。私服だと分かんないな」
白鳥さんはそう言うと何事もなかったかのように白いチョークのような物を咥え、先端をジジジと赤くした。そこだけ蛍が止まったみたいにぼんやりと明るくなって、雪のように白い彼女の肌が浮かび上がる。
「……なに」
「いや、タバコ…」
「あ〜…」
俺の視線に気付いた白鳥さんは空に視線を泳がせた。しばし思案する間を挟み、それから深呼吸するみたいに煙を吐いて、俺と目を合わせる。
「内緒にしといてくんね?」
白鳥さんは、イタズラを隠す子供みたいな笑い方をした。普通の人間よりは薄い表情だけれども、普段が無表情な彼女の場合はそれだけで強いアクセントとなる。
「っ…いいよ、秘密ね」
俺は胸のうちに湧き上がった興奮をどうにか押さえつける。そしてこの機を逃すまいと、言葉尻を繋げて言った。
「じゃーその代わりと言ってはなんだけどさ、ちょっとだけ話し相手になってくんない?」
「は?」
白鳥さんの隣によっこらせと座り、俺は目の前に広がっている駐車場を指差した。
「母親が迎えに今来てるんだけど、待ってる間ずっと暇なんだよ」
「あぁ、そゆこと。どーぞご勝手に」
これは俺が個人的に白鳥さんと仲良くなりたいという策略からの申し出だったが、白鳥さんは無愛想ながらも同席を許可してくれた。
俺はとにかく白鳥さんと早く打ち解けて、彼女が笑っているところを見てみたくて、彼女にいろんな質問をした。相手を気分良くさせる接待のような会話は得意だったから、彼女の笑顔はすぐに拝めると思っていた。
けれど白鳥さんは、頑なに無口な立ち回りを貫いた。どんな話題を振っても、「へぇ」とか「そっか」で終わるだけ。グレーな表情が変わることはないし、まして目なんて一生合わなかった。
「あはは…ごめんね、つまんない話だったよね」
苦笑いをして、俺は自分のうなじに手を回した。いつもなら会話の中で相手の好みを見つけてそれに合わせた話を展開するというのに、彼女の返答は「別に」か「特には」である。正直こうも情報がないと、どう立ち回れば良いか分からない。自分から謝っておいて、ダサいなと思った。
すると、白鳥さんは何を思ったのか、フッと鼻で笑った。
「可愛いね、健気で」
白鳥さんの顔はまた、例のイタズラな笑みを浮かべていた。足を組み、指の隙間に挟んだ煙草の煙をくゆらせて、薄い唇だけで笑うその様子は、およそ自分と同い年の少女とは思えないくらい妖艶である。
「へ?かわいい…?」
俺は少しの間、聴き馴染みのあるその言葉の意味が分からなくて固まった。けれど数秒して頭がその意味を理解した途端、バクンと心臓が跳ね上がって顔がりんごのように真っ赤になった。
「っいやいやいや!そーゆーセリフは女子に言うヤツだから!ゴリッゴリの男子に当てはめていいヤツじゃないの!」
「そう?」
「そう!!」
そういうもんかな、と白鳥さんは再び煙草に口を付ける。俺は急に暑くなった顔の熱を冷ますべく立ち上がり、屋上の低い塀に近付いて下から立ち上る風を浴びた。
ここの屋上は塀がベンチとそう変わらない高さしかなくて、怖いもの知らずの人間はこちらを椅子代わりにすることがある。けれど俺は死が身近にあることを知っていたので、どんなに顔が暑くても三十センチの距離を置いて立っていた。
しかしふと、屋上に強い風が吹き込んでくる。それは先程までの緩やかな風と違って体を動かすほどの風圧があり、俺は不意に片足を浮かされた。
不幸なことに、そのつま先が塀に引っかかって体を前に倒す。
「は」
「っおい」
背後で焦った声が聞こえた。
俺はあっという間に体勢を崩して、上半身を煌びやかな光が敷かれる地面に投げ出した。
(落ちる!)
目眩のような感覚がしたその瞬間。俺の両足が完全にコンクリートに離れる前に、何か黒くて大きなものが目の前を横切った。
地面の明るさに目が眩んでよく見えなかったが、それは妙に鳥の羽のようにふさふさとしていた。しかしやけに大きい。そして人間のようにきちんとした意思を持っているらしく、俺の倒れかけた体をゆっくりと屋上に押し返した。
これは…。
「翼…?」
黒い物体は俺が完全にコンクリートの上で安定すると、すっと俺の背後に引っ込んでいった。俺は振り返る。
そこには、焦った顔の少女がいた。
彼女の背中には、黒い翼が生えていた。
「えーっと、だな」
突然に現れた翼をしまった白鳥さんは、俺がどういうことだと追求すると気まずそうに切り出した。
「見ての通り、私は人間じゃない。天界にあるルールを破って堕ちた天使、「堕天使」だ」
堕天使。頭の中でもう一度噛み締めて、厨二病のような言葉だと思う。けれど紛れもない事実だ。
彼女、白鳥さんは人間でも天使でもなく「堕天使」だった。昔は天使としてとある神様に仕えていたが、今は堕天したことでその神様から与えられた人間の器に入り人間として生きているのだと言う。
「日本の神様に天使が仕えるのか?普通、天使なんてキリスト教とかの方の存在だろ」
「最近は人口が増えて神様だけじゃご利益を配りきれないの、天界でもグローバル化とか進んでんだよ」
聞くと、天使の仕事は神様の代わりに参拝客へささやかなご利益を届けることらしい。恋愛成就ならば出会いの機会を与えたり、安産祈願ならば母子の体調を良い方向に導いてやったりと、仕える神様が司るご利益によって働きが変わるのだと、白鳥さんは説明した。
「まぁ、そんなにすごいことができるわけじゃないけどな。本当に少しだけ、結果を変えてやるだけ。些細なもんだよ」
そう言う白鳥さんの横顔には憂いがあった。悲しさが漂うわけでも、涙を流すわけでもない。ただ、どこか灰色の曇りが見えていた。
俺がそれに何か言葉を発する前に、白鳥さんは煙草の火を消して「じゃあな、ここでの出来事は気にするな」と言いその場を去った。
俺はその後ろ姿を見送ると、その場にヘナヘナとしゃがみ込む。
膝の間に埋めるその顔は、ずっと堪えていた胸の暑さを宿していた。
不純だ。あまりにも不純だけれども、彼女の憂う横顔はそれだけでミステリアスな雰囲気を醸し出していて、まるでドラマの儚げな女性を見ている気持ちになる。けれど同時に整った同級生の顔立ちが心臓をくすぶって、いても立ってもいられなくなる。
俺は明確に、彼女という存在に心を奪われてしまった。それもあっけなく。
やがて母親から屋上に着いたという連絡が来て、俺は見覚えのある車を探して中に乗り込む。
そして次の日も、また同じ時間に同じ場所に来ようと決心した。
* * *
白鳥さんは毎日同じ時間、同じ喫煙所で煙草を吸っていた。おかげで会うことは容易く、二日目に会いに行った時は「また来たのか…」と嫌な顔をされた。
けれど一週間も通う頃にはだんだんと向こうも諦めてきて、会うたびに「また来たのか、ストーカー」と今度は薄ら笑いで言われるようになった。そのセリフに慣れてしまった俺は俺で「また吸ってんの?ヘビースモーカー」と返すのが最近の日課である。
午後八時、ショッピングセンターの屋上の喫煙所。気付けばここが俺たちの秘密の会合所になっていた。
通い始めて二週間も過ぎると向こうもこちらも気さくに話すようになるもので、白鳥さんは会話の中で頻繁に薄く笑ってくれるようになった。しかし学校では周囲の目があって全く話せないので、俺たちは二面性のある関係を保っていた。
彼女との会話は、本当に刺激的だった。
「白鳥さんは…」
「……」
「ん?なに?」
いきなり黙ってこちらを見つめてくるので、俺は話をやめて尋ねた。
すると白鳥さんはただ、「ゆう」と言った。彼女は少し前から俺のことを「ゆう」と呼ぶようになったのである。
「なに?」
「ゆーう」
俺が問い返すと、今度は小さい子に言い聞かせるみたいに不機嫌そうな声を出した。そこでようやく俺は彼女の言いたいことを理解する。
「…へいへい、咲希さんや」
白鳥…咲希さんは満足そうに「おん、なんだい?」とそのまま話を聞いてきた。彼女が言いたかったことは要するに、呼び方が違うだろうということだろう。
元々、呼び方を変えたいと打診したのは俺だった。もちろんクラスメイトよりも仲良くなりたいという下心からである。しかし俺はうっかり呼び方を間違えてしまうことがある。すると咲希さんは絶対にそれを気にする性格ではないのに、俺の反応を楽しみたいがためにあえて遠回しな方法で指摘してくるのだ。
咲希さんと関わり初めて今日で二週間になるが、未だに彼女は掴みどころがなくて、毎日のように手のひらで転がされている。天使と人間という種族的な違いを抜きにしても、彼女の思いや考えは全く分からないというのが現状だ。
だからこそ、俺はどうにかして彼女のことが知りたかった。彼女は一体、何を考えて日々を過ごしているのか。彼女が重きを置いているのはどこなのか。
そのために俺は日頃から咲希さんにあらゆる質問を投げかけていた。どんなに些細なことでも、彼女のことを知る何かのピースになればと思って。
「つか、煙草って実際おいしいの?いっつも吸ってるけど」
今日は咲希さんがいつも吸っている煙草について聞いてみることにした。個人的に味が気になっていたのもある。
咲希さんはんーっと声を伸ばして、「そうでもない」と答えた。
「でも、休息は必要だからね」
そう言ってまた煙草の煙を吐く。珍しく、咲希さんの言葉には彼女の考えがこもっていた。
「この世界には白の他にもたくさんの色があって、それと同じくらい感情にもいろんな種類がある。「白以外の感情」を知ってその良さを噛み締めるのは楽しいけど、疲れちゃうからな。箸休めは大事だ」
咲希さんは天使としてはまだ若いが百年は余裕で生きていると聞いている。これは、そんな人間から見て長命な咲希さんの人生観ということだろう。確かにその言葉は核心を突いているように思える。でも心のどこかで、それは咲希さんの悲しい経験から来るものではないかと思ってしまった、
長い人生の中で、もしかしたら咲希さんは何か黒よりも濃い色の感情を浴びたのかもしれない。だから休みは大事だと考え、感情を消化させるため道具として煙草に依存するようになったのではないだろうか。
「咲希さんが見てきた感情は、どんな色だった?」
微かな風の音しか聞こえない薄暗い空間で、俺は静かな声で尋ねた。すると咲希さんは隣でニコチンをスーッと吸い込んで、唐突に俺の頭を大雑把に撫で付ける。
「天使が知ってる感情の色なんて、知らなくていいもんばっかだ」
煙草の匂いに顔を上げて咲希さんの顔を見るが、もうその顔はそっぽを向いていて、白い頬と首筋が弱い光のように薄く見えるだけだった。
咲希さんは親しくなってからというもの、よく思わせぶりなボディタッチをしてくるようになった。それに俺は毎回どきっとするのだが、思い返してみればその時の表情はどれも暗かった気がする。
考えてみれば、一般に想像される天使は常に優しく微笑みかけてくれる純粋な存在だ。でも咲希さんの表情にそんな言葉は似合わない。それはきっと彼女が堕ちた天使だからだろう。
そもそもの話、咲希さんは一体どんなルールを破って堕天使になったのだろうか。それを尋ねてみても、咲希さんはまたこちらをからかってのらりくらりと避けるだけ。
出会って二週間。他のクラスメイトよりは咲希さんのことを知っているはずなのに、まだまだ彼女の核心的なところを掴めている気がしない。彼女がそこを意図的に隠しているのだ。でもどうしようもない諦観と悲しさが時おり滲んでいる。
そんな未成熟な言動が、やがて過去の自分と重なるようになった。あの頃の自分は常に心の状態が不安定で、けれどそれを他人に包み隠さず相談するほどの勇気も持ち合わせていなかった。
もし咲希さんが過去の自分と同じような状況に置かれているのなら。俺はますます、彼女のことを知りたいと思うようになった。
* * *
「人間って、なんであんなに着飾るんだ?」
ある日、咲希さんは箱を振って煙草を出しながら聞いてきた。
「別に着飾ったところで何か変わる訳でもないだろ」
「見た目が変わると人間は可愛いカッコイイって褒められるんの、そーするとモテる」
「ふーん」
俺の説明に、聞いてきた本人は興味がなさそうだった。俺は聞き返す。
「逆に天界はオシャレする習慣はないの?」
「無いな。天界では白色しか許されない。それ以外の色は全て邪なもので、黒なんて邪悪の印だと考えられてるからな」
聞けば天使はみんな瞳や髪、翼が白いらしい。だから堕天する前の咲希さんも白い翼と髪、そして服を身にまとっていたらしいのだが、今は日本人らしい真っ黒な髪と瞳をしている。器が人間だからだと本人は言っていたが、だとしたら暗い色合いの服装はどう説明するつもりなのだろうか。
「これを機にオシャレしてみたらいいんじゃない?咲希さんは顔が綺麗だから、オシャレしたらきっとモテると思うよ」
我ながら上手に褒めたなぁと思ったけれど、咲希さんは興味なさげに突っぱねた。
「興味ねぇな。別に楽しくもなさそうだし」
「楽しいかどうかは経験してみないと分かんないんじゃないですかねぇ?」
「ハッ!じゃあ何か?私が一人で服屋入ってアタフタすれば満足かよ」
咲希さんが鼻で笑い皮肉を言う。煙草の薄茶色の部分を加えて吸い込もうとしたけれど、吸い込む前にその口が開かれた。
「そうならないために、俺がいるんじゃん?」
咲希さんが条件反射的に「は?」と言う。俺はニッと笑いかけた。
「今週の土曜日にさ、一緒に買い物しない?若者代表が、無知な天使様に若者の生活を教えてあげる」
「ほら、スマホ出して。連絡先交換するから」そう言うと咲希さんは渋々といった態度でスマホを俺に手渡した。俺は実に鮮やかな手口で彼女の連絡先を入手し、あまつさえ休日に一緒に出掛ける予定を組んだのであった。
連絡アプリのトーク画面を開いて、俺は早速メッセージを打つ。「土曜日、ここに集合ね」と送った後に位置情報を入れると、咲希さんは淡白に「はいはい」とだけ返信した。ふふっと笑う俺の隣で、彼女は面倒なことになったなぁという具合に息を吐いていた。
そんな訳で俺は土曜日の朝から精一杯オシャレをして、咲希さんと一緒に出掛けた。この日のために数日前からリサーチを重ねてきたので、予定はバッチリである。
まずいつものショッピングセンターの一階で待ち合わせをして、目的の服屋に向かう。そこで何着か咲希さんの好みに合い、尚且つ俺が似合っていると思った服を購入して、徒歩十分のカフェで休憩をする。その後の予定は面倒臭がりの咲希さんが嫌がると思ったから入れていない。
咲希さんは若者らしいお出掛けを全くと言って良いほど知らなかったので、常に俺が先導する形となった。別にその自体は苦でないので俺に大したストレスはない。
窓側の席で向かいに座り、甘いカフェオレを飲みながら窓の奥を眺める咲希さんの顔は、やはりアニメの中から出てきたキャラクターのように美しく、真顔だった。陽だまりが彼女のスっと切り立った白い頬に反射して、店内にある観葉植物の緑に囲まれて淡く発光しているようにさえ見える。
「どう?今日の感想は?」
俺にとっては短い予定を組んだけれど、どうだっただろうか。
「どうって?」
「楽しかった?」
「…まぁまぁだな」
「まぁまぁかい」
残念そうに言ったけれど、内心ではそのまぁまぁを貰えたことにかなり喜んでいる。それが笑みに滲んだことで咲希さんからは変なものを見る目で見られてしまった。
「お前ぐらいだよ、私の感想に喜ぶのは」
俺が笑みを噛み締めていると、咲希さんは唐突に言った。
「そう?学校の人間なら誰でも喜ぶと思うけどね」
「少なくとも天界じゃそうはいかない。天使にとって感情ってのは、不必要なゴミでしかないんだよ」
「?」
小首を傾げる俺に、咲希さんは説明した。
天使という生き物は本来ならば大した感情を持たない。無表情で淡々と仕事をこなしていく、言うところのロボットのようなものである。だから自分はこれでも感情がある方。あってしまった方なのだと、彼女は暗い様子で俺に話した。
しかし俺にして見れば、咲希さんはまだまだ感情が薄いように見える。種族的な違いを改めて語られた俺は、自分が今見ている景色と咲希さんが見ている景色は違うのではないかと思い始めた。もしかしたら、現状を楽しんでいる自分とは違う感情を、彼女は今抱いているのかもしれない。
「咲希さんは今、何を考えてるの?」
俺が疑念をそのまま尋ねると、咲希さんは少しだけ間を挟み、ポツリと言った。
「何も考えてない」
その返答に俺が呆気に取られる間に、咲希さんは続けた。
「世の中、何も考えてない方が楽なんだよ、真っ黒な感情を知らずに済むから。お前も長生きしたければ、何事も深く考え込まないことだな」
そう言って彼女はカフェオレに再び口を付ける。まるでこの話はここで終わりだと言う風に。
でも俺は、彼女の言葉に反発せざる負えなかった。
「…確かに深く考えて辛いこともあるけれど、それが悪いってわけじゃない。いろんなことを知って、いろんなことに気付いて、「白と黒以外の感情」を知っている方が、人生は楽しいと思うよ」
いつになく強い眼差しで見つめてくる俺に、咲希さんは少しだけ驚いたようだった。瞼がいつもより高く持ち上がって瞳が丸く見える。
「咲希さんだって、今日の人間らしい生活を知って悪い気はしなかったんでしょ?まぁまぁだって言ってたじゃない」
俺は強い口調を戻して、今更ながら優しい笑顔を浮かべた。自分でも無理やりだなと心の奥底で呆れたけれど、そんな感情は彼女の表情が変わったのを見ていつの間にか露と消えた。
彼女は、哀れみの表情を浮かべていた。唇をキュッと結んで、細い眉根を高く吊り上げている。けれど何も言わなかった。
なんだよ、その顔は。
俺はその表情が網膜の奥底に焼き付いて離れなかった。
咲希さんは、自分とは比べ物にならないほど長い時間を生きている。だから自分が知らない感情を知っているのは当然だし、自分にそれが理解できないのも至極当たり前だ。
けれど、どうしても知りたかった。
彼女が一体、どんな感情を味わってきたのかを。
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