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第二話
天使が幸運を運んでくるなんて迷信だと思っていたが、堕天使が不幸を運んでくるというのは本当らしい。
咲希さんと出掛けた二日後の月曜日。俺はサッカー部の朝練を終えていつも通り教室にやってきた。すると既に登校していたクラスメイトたちに囲まれて、四方八方から問い詰められた。
「どういうことだ!」
「お前ずっと俺たちに黙ってたのか!」
「どこまで進んだんだ!」
「え、えぇ…?何の話…?」
俺が困惑していると、痺れを切らしたクラスメイトの一人が「とぼけるな!」と言った。
「お前が白鳥さんとデートしてんのを見たヤツがいんだよ!」
「はぁ…?」
どうやら、先日のお出掛けを同じ学校の人間にたまたま見られて写真を撮られていたらしい。スマホでその証拠写真を突き付けて、クラスメイトたちはどういう関係なんだと迫ってきた。
さてどう言い逃れしたものか。正直に実は少し前から会っていましたなんて言ったらクラス中から非難されるのは目に見えている。しかしクラスメイトの興奮具合からして俺が何を言っても角が立ちそうだった。いや、ここは腕の見せ所だ。こう見えて俺は意地の悪い二人の姉に昔から鍛えられたので口には自信がある。
「大した関係じゃないよ。たまたま服屋さんで見かけて、お近付きになりたいなぁと思ってカフェで喋って、それで上手いこと逃げられちゃったって話」
俺がなんてことないように話すと、クラスメイトたちは一気に安心した様子を見せた。「なぁ〜んだ」とか「そりゃあそうだよなぁ」「白鳥さんがお前を相手にするはずがないもんなぁ」とか言っている。
俺は周りにバレないようホッと一息ついた。しかしどこからか、余計な一言を挟む輩が現れた。
「別に、逃げたつもりはないんだけど。そもそも普段からよく会ってるしな」
それはまさかの咲希さん本人だった。彼女の言葉が原因で、落ち着きかけていたクラスメイトたちが一気に先程の調子を取り戻す。当の本人である咲希さんはその集団を抜けてスタスタと廊下を歩いて行った。彼女のファンの中に取り残された俺がその後にどれだけ苦労したかなんて、咲希さんはきっと興味もないのだろう。
俺は何とか咲希さんはバイト先の常連で、以前から少しだけ話したことがあるという形で納得してもらった(それでも多少の反感は買ったが)。クラスメイトたちは揃って咲希さん目的で俺のバイト先を聞いてきたけれど、そこは頑として教えなかった。秘密の会合を邪魔されては堪らない。
「ホンットに困ったんだから。なんであんな真似したの」
例の会合所で、俺は隣の不幸を呼ぶ堕天使に文句を言った。その堕天使は真っ黒な髪を揺らして、まるで煙に咽せるようにクックックと笑っている。
「人の不幸を笑うんじゃありません。だいたい、もし天使だってことがバレようものなら───」
「バレたところで問題ないさ、天使にまつわる記憶は一ヶ月もしないうちに消えるから」
「そうなの?」
俺がキョトンとして尋ねると、堕天使はその名の如く性格の悪い笑みを浮かべて言った。
「あぁ、下界の仕組みでな。もっとも、お前は頻繁に会うもんだから気付かなかったんだろうが」
「だとしてもあの一言はいらなかった」
俺の不満そうな態度に、咲希さんは笑ったまま「お前の困る顔が見たくてな」と言った。それに「厄介な性癖をお持ちなことで」と返すと、彼女からも同様に返答が来る。
「お前こそ厄介な友人を持ってるもんだ。噂の答え合わせをしたがるのは人間の性質なのか?」
「だろうね、基本的に人間は噂好きが大半だから」
「理解し難い」
「全くだ」
流れるように俺が共感する。すると横からジーッとこちらを見つめて咲希さんが言ってきた。
「…私からすれば、お前も理解し難い存在だぞ」
「?」
俺は言っている意味が分からず首を傾げた。すると咲希さんは煙草を前方の駐車場に突き出して説明する。
「あんなにクラスに適切に馴染んで、委員長まで務めて、ムードメーカーまでこなして。よくもまぁ器用に立ち回るものだ」
咲希さんは俺が予想していたよりも、ずっと俺のこと…いいや、周りの様子を見ていたらしい。何だか少しだけ恥ずかしくなって、俺は控えめに笑う。
「あぁ、まぁ一種の防衛策だよ」
俺は中学時代にクラスメイトからいじめられた経験がある。咲希さんの言う器用な立ち回りというのは、俺が中学時代に二の舞にならないように被ったお面のようなものを指していた。
「咲希ちゃんだってもう少し笑えばいいよ。せっかく可愛い顔をもらったんだから、ちょっとでも笑えばクラスの輪に入れるはずだよ」
言いながら、それは嫌だなと俺は思った。自分にはクラスメイトよりも咲希さんと親しい間柄である自信があるけれど、クラスメイトが自分よりも咲希さんと関わるのは、どうにも嫌だ。
咲希さんはそんな俺の考えなど露ほども知らず、「私はこのままでいい」と言った。
「どうせ忘れられる存在だ」
その言葉は、諦めを含んでいるからか氷のように冷たかった。俯いた瞳が天使とはかけ離れた黒の色彩を含んでいる。
俺は口を開いた。何か、どうしようもないけれど言葉を咲希さんに伝えようとした。
けれどそれは、音になる前に別の音にとって掻き消されてしまった。
「困りますね、あまりに目立つ行動は過干渉だと忠告したはずですが」
音の正体は、鈴だった。
俺が振り向くと目の前には背の高い男性が立っていた。現代では珍しい袴を身に纏い、鈴を提げたヘアゴムを使って長い髪を肩に流している。顔は紐で固定した布で覆っているので見えなかったが、下から見上げると口元だけ見ることができた。
「えっ、あ、いやっ、ちゃうんすよこれは」
突然の不審者の登場に動揺した俺は、とにかく相手が大人ならば咲希さんが煙草を吸っているのはまずいと思い、必死になって咲希さんの煙草を手で隠した。すると咲希さんはそんな俺を退かしていつもより低い声で言った。
「何しにきたよ、パワハラ上司」
「酷いですね、ウチは常にホワイトですよ」
「寝言は寝て言うもんだ、何なら私が力づくでおねんねさせてやろうか?」
顔を隠した謎の男性と、咲希さんが慣れ親しんだ様子で話している。俺がその光景に驚いていると、その様子に気付いた咲希さんは説明してくれた。
曰く、その男性は咲希さんが天使だった頃に仕えてきた元上司で、咲希さんに人間の器を与えた人物らしい。もちろん彼は人間ではなく、ヤオタミという神様らしい。
「恋愛成就と身体安全の神です、よろしければ参拝に来てくださいね、この近くに神社がありますから」
見た目が異質で本能的な警戒心が掻き立てられたが、話してみると敬語が綺麗なおちゃらけた人格像が見えたので、俺の肩からは段々と力が抜けていった。
「あの、過干渉ってどういうことすか」
俺が尋ねると、ヤオタミは丁寧な言葉遣いのまま軽い調子で説明してくれた。
咲希さんには現在、天使として担っている仕事を休職する代わりに二つの条件が出されている。一つ目は人間として生きること。二つ目は目立つ行動をしないこと。ヤオタミによると、咲希さんは二つ目の条件に抵触しているらしい。
基本的に天使に関する記憶は忘れられるが、表舞台で過度に目立つ真似をしたり、特定の人間と関わり続けると完全には忘れられない可能性があるのだと言う。それを目の前で説明されてもなお、咲希さんは悪びれる様子を見せなかった。
「別に問題ないだろ。人間が友人を作ることは自然のことだ」
あまりに自然と友人だと言われて、俺は密かに胸をざわつかせた。
「それに一ヶ月も経てばみんな忘れるだろ」
そう言って逃れようとする咲希さんに、ヤオタミは更に「でしたらもっと友人らしく進展したらどうなんですか?」と追求してくる。いい加減その話題にうんざりしてきたらしい咲希さんは「つーか要件はなんだ」と露骨に話題を逸らした。
「もーそれ悪い癖だと思いますよ」
「まぁほとんど諦めてますが」ヤオタミはため息をついて、咲希さんの希望通り本題に移った。
「要件は、忠告ですよ」
「忠告?」
俺が繰り返す。咲希さんはスッと視線を逸らした。ヤオタミはそんな咲希さんに厳しい目を向ける。
「はい。あなた、ご自分があんまり悠長にしていられない身だということ、分かっていますよね?休職期間、もう一年も残っていないのですから」
「どゆこと?」
俺がヤオタミに尋ねると、彼は何処かの隠したがり屋さんの事情を饒舌に説明してくれた。
「天使の体が下界に入れる期間は決まっています。その期間を私たちは休職期間と呼んでいるのですが、この子の場合はもう器が長く持たないのです。もし休職期間内に堕天使から天使に戻れなければ───」
「はいはい、分かった分かった。忠告は受け取ったから、とっとと帰れ」
咲希さんはヤオタミの言葉を遮り、手の甲でしっしっと払う真似をした。ヤオタミはため息をついて「本当に意味を理解しているのですか?」と聞いてくるけれど、咲希さんは完全に機嫌を悪くしたらしい。
「あーうっせうっせ、これだからお節介ジジィは…もういい、帰るわ」
頭を乱暴に掻いて、咲希さんは立ち上がりその場を去ろうとする。
「待ちなさい」
ヤオタミは彼女の腕を捕まえた。聞こえてきたため息は、恐らくヤオタミではなく彼女のものだろう。
「ゆう。こっち来い」
「ん?」
俺は名前を呼ばれて、不思議に思いながらも頭を抱える咲希さんに近付いた。すると、
咲希さんは、翼で俺を屋上の外にはね除けた。
「!」
驚いた時にはもう既に遅く、俺の体は浮遊感を感じていた。彼女とヤオタミの姿が遠のいて、視界がラメのようにまばらな星空で埋め尽くされる。そのすぐ後に、全身が重力によって沈められていった。
「うああああああああああ!!!」
風が全身の外側を激しく過ぎ去っていき、突風の音が耳の外を塞ぐ。俺は完全にパニックになって体をバタつかせた。体と心が風で冷たくなり、あともう少しで地面と激突するというところまで落下する。
そこへヤオタミが柔らかい風を巻き起こし、自身の体を滑らせて俺の体をキャッチした。チリリンと鈴が震える音がして、全身がふわっと彼の腕の中におさまっていく。
「大丈夫ですか。全くあの子は…いくら私がいると言っても、少々乱暴すぎですね」
ヤオタミによって地面に安全に降ろされた俺はそれに安心するなり、頭が爆発しそうなほどの怒りを湧き上がらせた。
(アイツ覚えとけよ…!絶対に十倍にして返してやる…!!)
その心情が顔から滲み出ていたのか、ヤオタミは一応の弁解をした。
「誤解しないでくださいね。あの子は貴方を殺す気なんてサラサラありませんでしたよ。私が必ず助けるからと、むしろ私から逃げるために安心して突き落としたんでしょう」
「全く、天使に戻る意欲が感じられませんね」その言葉が俺の頭を急速に冷やした。もし、咲希さんが休職期間内に天使に戻れなかったら、彼女は一体どうなるのだろうか。
俺はその疑問をそのあまヤオタミに投げかけた。すると、彼は恐ろしいくらい簡単に答えた。
「消滅します」
「え…」
* * *
苦味のある白い煙が、暗い景色を霞ませる。
俺を突き落とした後、咲希さんは何事もなかったかのように近くの川までやってきた。そこには大きな川を横断するための橋が架けられていて、人通りが極端に少ないため彼女の第二の喫煙所となっている。
ライターで火を付けて煙を吹かす。紺青色の水面は空に浮かぶ星々を揺らしていて、まるで上と下から星空に挟まれているかのようだった。辺りは冬の風が漂いすっかり暗くなっている。何処からか聞こえてくる鈴虫の鳴き声は、静けさを彩るささやかな音色のようで心地良かった。
ふと、ズボンのポケットでスマホがブー、ブーと震えた。画面を確認すると、それは俺からの着信だった。
「はいもしもし」
「どういうこと!?」
電話に応じた瞬間、突然の叫び声。耳がキーンとなった咲希さんはスマホから耳を離し、スピーカーボタンを押した。
「え、何が」
「消滅するって!マジでなに考えてんのっ」
「消滅…」
口の中で繰り返して、咲希さんはようやく俺の言いたいことを理解する。
「あぁ、なに、ヤオタミから聞いたんだ?」
煙草を咥え、フーッと煙を風に靡かせる。その顔には、やはり驚きも焦りも含まれていなかった。
「消滅って、どういう…」
俺が唖然とした表情で尋ねると、ヤオタミはまるで重い病状を語る医者のように説明した。
「そのままの意味です。あの子は貴方たちのように輪廻転生することもできず、完全に魂ごと消えて、跡形もなくなる」
言葉が、唐突に質量を持った気がした。消える。それはつまり、二度と復活することができないということだ。来世だけでなく、未来永劫、誰とも関われず誰にも知られなくなる。何の感情も抱くことができなくなってしまうのだ。
「天使の体が下界にいれる期間は決まっていると言ったでしょう?あの子はその期間を過ぎているのです。もはやあの子の翼は生来の見る姿もない。もう飛ぶことだってできないだろう」
俺は咲希さんの翼を思い出す。真っ黒に塗り潰された幾重もの羽根。あれは本来ならばもっと大きく、この世の穢れなど全く知らない純粋な白を放っていたのだろう。そういえば彼女は元天使であるにも関わらず、いつも俺と同様に屋上の塀を絶対に越えない位置に座っていた。
あの立ち回りは、今まで住処としてきた空を危険な場所として認識するようになったからなのだろう。
ヤオタミから咲希さんの第二の喫煙所を聞いた俺は、そこに全速力で向かいながら必死に電話の向こうへ語りかけていた。
「咲希さん、アンタこのまま行くと一年もしないうちに消滅するんだよ?こんなに悠長にしてる場合じゃないでしょ、とっとと天使に戻らないと、アンタはっ───」
それを言い切る前に遮ったのは、咲希さんの実にハッキリ声だった。
「天使に戻るつもりはない」
「はぁ…?」
俺は背の高いススキが両側に続く一本道で立ち止まる。
「私、このまま死ぬつもりなんだ」
彼女の声は、死という言葉を使う時でさえいつも通りだった。俺は驚きのあまりしばらく返答ができなくて、弾んだ息だけを返す。衝撃が頭を真っ白にして、鈴虫の音が自分の荒れた息遣いで掻き消される。
電話越しの彼女は、自分のリズムを崩すことなく煙草の煙を吐いていた。それを聞いた脳みそがようやくノロノロと動き始めて、言葉を絞り出す。
「なんで…」
それに対する彼女の返答は淡白だった。
「別にお前に言う必要ないだろ?」
嫌になるくらい普段通りの言葉。けれど今はそれがどこか大人ぶった言い訳に聞こえて、俺は無性に腹が立った。
「……言いたくないだけだろ?」
スマホの奥で彼女が初めて動揺の声を零す。俺の怒気を声から察したのか、はたまた図星だったのか。そんなことを全く気にしない俺は、苛立った足取りで歩き出した。
「前に言ってたよね、『天使が知ってる感情の色なんて、知らなくていいものばっかだ』って。それはつまり、咲希さんが言いたくもない色の感情を見てきたってことでしょ?」
「…まぁ、そうかもしれないね」
咲希さんはその言葉を容易く飲み込んだ。
「だったら余計に話して。濁った水は一度捨てないと綺麗にならないでしょ」
俺は畳み掛ける。咲希さんの態度は飄々としていた。
「一丁前に言うねぇ、お前はそんなことが言えるほど偉くなったんだ?」
「まぁね…だって俺は───」
急にピュウと音を立てて風が強くなり、咲希さんの真っ黒な髪が吹き飛ばされる。それを追って彼女が顔を向けると、そこに人影が見つけた。
「───友人なんでしょ?」
橋の入り口に、堂々とした俺が立っていた。今までは電話の向こうに向けて投げかけてきたけれど、今度は直接に伝えることができる。
『人間が友人を作ることは自然のことだ』自分の言葉を聞き直し目を大きくした咲希さんに、俺は近付いた。
「教えて。咲希さん…いいや」
今、目の前にいるのは学校で注目されている天使ではない。何らかの過ちを犯したミステリアスな堕天使でもない。
俺と同じようにあらゆる感情を抱え、悩み、それでも自分なりにどうにか生きてきた、ただの少女だ。
「咲希が、何を感じて生きてきたのか。どんな感情を噛み締めていたのかを」
その言葉を聞いた咲希は心底から驚いた様子だった。呆然と近付いてくる俺を目で追って、口を少しだけ開け放している。
けれどすぐにフッと笑い、今まで見た中で一番人間らしい苦笑を浮かべた。
「苦々しいものばっかりだ。本当なら、もう過去の感情だからあまり教えたくはないんだけどな」それを皮切りにして、咲希は語り始めた。自身が味わってきた、どうしようもない感情の一端を。
「天使はな、ハッキリ言って出来ることなんかほとんど無いんだ。神サマから言われた仕事をただこなすだけ。私の場合はヤオタミが身体安全を司る神だったから、そのご利益で人間を危険から遠ざけるだけで、救ったりしてやることはできない」
「無力なもんだ」そう言って、煙草の煙を吐く。彼女がツラツラと口にする言葉は、淡々とした口調に反して無力感で溢れていた。まるで自分は何も出来ない、いてもいなくても変わらない存在だと卑下している風に聞こえた。
「何度も考えたさ、なんでこんなことしてるんだろうって。自分がやってることに、意味なんてないんじゃないかって。そう思ったら……」
徐々に彼女が首をもたげていく。それに伴って声色が沈んでいって、そして最後には、泥沼の奥底のように黒い声で言った。
「助けようなんて、もう思えなくなった」
次の彼女の言葉は、まるで裁縫用の鋭い長針のように深く俺の心に刺さったけれど、同時にとても腑に落ちる言葉でもあった。
「いろんなことを知って、いろんなことに気付いて、「白と黒以外の感情」を知ってしまったから、人生が楽しくなくなった。苦しい」
「苦しい」その言葉が壺の中に放り込まれたかのように胸の中で反響する。
頭の中にカフェでの光景が蘇る。あの時、なぜ彼女があんなにも苦しそうな表情をしたのか、俺は何となく理解できたような気がした。
きっと、自分と同じ末路を辿って欲しくなかったのだ。
「だったらもう生きていたくないさ。今のうちに、死んでおくべきだ」
俺はそれに、心の中で痛いくらいに共感した。何故なら俺にも同じように、死にたくなる過去があったから。
* * *
中学一年生のこと。それまで大人しい性格で同じようなタイプの友達にばかり囲まれていた俺は、中学で初めて毛色の違う友達と出会った。みんな、他の誰かとは全く違う色のイメージを体現していて、一人一人がかけがえのない唯一の人間に見えた。そんな友達に囲まれて、俺の持っていた薄い色はどんどん他の色と混ざり合っていった。
そのうちに自分の元々の色なんて忘れてしまって、でもそれさえも笑い飛ばせるほどに俺たちは仲が良かった。日々の会話が常に大切で価値のあるものに感じて、友達と関わる時間は今までにないほどの充実感があった。
けれど、いつだったか気付いてしまった。自分の持つ色は、彼らとは混じってはいけないことに。もし自分が彼らの色と混ざってしまうと、彼らの持ち味である強い色彩を霞ませてしまうことに。
頭の悪い自分以外はそのことに随分と前から気付いていたのだろう。徐々に自分へ投げられる言葉が刺々しくなって、休み時間の度に仲間外れにされるようになった。その些細な拒絶は、最終的にクラスを巻き込んだいじめへと発展した。
学校に登校してくると下駄箱に暴言の書かれた紙やゴミが入っていて、教室に入ると水バケツを被せられてクラスメイト中に笑われた。そういった実害を伴う執拗な嫌がらせは、授業中や放課後だけではなく休日の家にも押しかけてくるようになった。
俺はやがて、死を身近なものとして感じるようになった。
同年の冬、俺は赤信号の横断歩道を渡ろうとした。しかしそれはでたらめな力で引っ張られることで止められる。
止めたのは、兄だった。
兄は学校でのことを全く話さずに一人で苦しんでいたことに気付いていたらしい。たまたま仕事が休みだからと学校まで迎えに行ったら、俺が横断歩道の前で虚な顔をしているのを見つけたのだと、後に病院で語った。
「お前はいろんなことを知って、「黒以外の感情」に出会う。苦しい感情ばっかじゃねぇから、絶対に大丈夫だ」
泣きぼくろを付けた猫目が薄く笑いかける。
昔から兄は俺が苦しい思いをしている時に、口酸っぱくそんなセリフを吐いていた。いつも口が悪くて考え方も態度も粗暴なのに、根本的なところは呆れるくらいに優しいというのが、兄という人間の特徴だった。
兄は俺から丁寧に学校での事情を聞き出すと、それを両親にも伝えて俺を精神病院に入院させてくれた。精神病に関して知識の浅い両親は入院するほどのものなのかと思ったらしいが、兄は自殺未遂をしたことと、クラスメイトに住所を知られていて家ではじっくり療養できないことを理由に挙げて入院を推し進めた。当時の俺には分からなかったが、入院費の一部は兄の財布から出ていたそうだ。
そのおかげで、俺は中学三年生になる頃には持ち直すことができた。どうして兄がそこまでサポートしてくれたのかと言うと、兄もまた精神を病んだことがあったからである。
彼の場合、原因は大学受験だった。その頃の兄は九歳の俺でも何かを察するほど口数が少なく、顔から生気が感じられなかった。ずっと部屋にこもって夜遅くまで勉強をして、母親とも何か大事な話をしているようだった。
そんな兄が俺と同じように立ち直ることができたのは、とあるカウンセラーからの言葉が大きかったらしい。
「自分が苦しんでいることを知ってる人がいて、それでも死なないでと切実に、心を消費してくれてる人がいるって分かったしな」
俺は兄のおかげで、兄はカウンセラーのおかげで、地獄のような日々を乗り越えた。
そして今、咲希はその地獄に背を向けている。今は休職期間に入っていることで目を逸らすことができているが、再び地獄に戻ればまたその残酷さを直視することになるだろう。彼女には、もう地獄を抜け出すための自由な翼がない。
今の彼女は、地獄から救い出された病室の自分と同じだ。どっぷりとした黒い感情の海に溺れて、楽しいや嬉しいといった明るい感情の色がきちんと見えていないのだ。
支えたい、と思った。自分が兄によって地獄から助け出されたように、自分もまたこの子を地獄から助け出したいと、何の不純も混じることなく思った。
俺は、落ち着いた喋りをするよう心がけて話した。
主人公は天使を支えたいと思った。主人公は、努めて落ち着いた喋り方を心がけた。けれど熱が滲み出している。
「咲希は…知らないだけだ。楽しいとか、嬉しいとかっていう感情の色を。生きていれば、必ず知らない感情を味わう機会がある。今まで味わってきた感情を忘れさせるくらい、熱い感情を味わうことになる。そういう風に決まってるんだ!」
話しているうちに感情が込み上げて、声を荒げてしまう。熱い自分の前には、氷のように冷ややかな顔の咲希が座っていた。
「で?」
咲希が聞いてくる。
「だから…だから、死ぬな…」
俺は感情が爆発して自分で何を言いたいのかが一瞬分からなくなってしまって、途端にしどろもどろになってしまった。いつの間にかシンと静まり返った夜の川に、自分の情けない声が溶けていく。
咲希は、何を思ったのか唐突に微笑んで熱を帯びた声を上げた。
「羨ましいなぁ」
「え?」
「私はもう、そんな風に感情的に動いちゃいけないからさ。だから、人間のお前が羨ましい」
咲希の視線が俺の目に向けられる。言葉通りの縋るような瞳に、俺は人間らしい弱さを見出してしまった。だからかその瞳の理由を聞けなくて、代わりに言葉をかけてやりたくなった。
「羨ましいなら、俺が引きずり出してあげようか」
「は?」と咲希が声を漏らす。俺は貴重な弱気の彼女に向かって、得意げに笑いかけた。
「俺が、咲希の「白と黒以外の感情」を引きずり出してあげる」
咲希はその言葉に、瞳だけでなく顔全体で驚いていた。けれどもまたすぐにその表情をしまい込み、鼻で笑う。そして、今まで見たことがない表情を表に出した。
「やってみろよ」
その瞳は、見た目に相応しいまっすぐな光を宿していた。唇の曲げ方や視線の投げ方はいつもと何も変わっていないのに、澄んだ二つの黒曜石が座っただけでまるで同い年の少女と対面しているように見える。これは彼女の感情がこもった笑顔だと、感覚的に理解させられた。
俺は彼女のその笑顔に、まんまと心を奪われてしまった。自分でも恥ずかしくなるくらい、あっけなく。
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