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第四話
鳥居の続く並木道はすっかりやせ細り、その葉を足元に散らしていた。しかし境内の空気は冬の寒さも相まってより神聖なものに感じられる。
そんな社の石階段で、白い息の他に白い煙を吹かす輩がいた。
「コラ、人の神社で煙草を吸うんじゃありません、バチを当てますよ」
彼女の頭をポンと叩くのは、この神社の主人であるヤオタミだった。彼と共に現れた冷たい風がチリンと彼の鈴を揺らしている。
「気が短い神様だねぇ、そんなんじゃ人間の信仰心が薄れるぞ」
そう言い返しながら、咲希は無遠慮に煙草の煙を吐き続ける。ヤオタミはそんな彼女を嗜めるべく、少し前に仕入れたばかりのネタで彼女をからかってやることにした。
「口が達者なのは良いことですが、ちゃんと自分の足元を見てくださいね?」
「は?」
「聞きましたよ、学校の行事で天使役をやったんでしょう。それも大勢の前で」
「う!」
図星を突かれたように、咲希が呻き声を上げる。
「随分と人気を集めていらっしゃったとお伺いしましたが?」
畳み掛けるヤオタミに咲希は目を逸らす。
一昨日、彼女は学校の文化祭で行われた劇で天使役を演じた。その評判は凄まじく、文化祭が終わった後も彼女の元に熱烈なファンが押し寄せてくるほどだった。普段はクールで清楚な印象だったというのもあるだろう。その可愛らしさと美しさは学校外からも訪れた人々までも虜にしてしたという。
「あれは…いつの間にか決まってたんだよ」
「勇雅が推したそうですね、一昨日も随分と楽しそうな顔で報告してくれましたよ。よほどあなたが認められて嬉しかったのでしょうねぇ」
ニヤニヤした顔つきでヤオタミは咲希の隣に座る。彼女は迷惑そうな顔で言った。
「つーかあいつ、また来たのか。神様の類は興味ないと思ってたが…」
「神様というよりも、あなたに興味があるようですよ、彼は」
彼女はチラリと、鋭い視線を隣に投げる。
「…止めてくれました?それ」
「いいえ?むしろアドバイスをしてあげました。私は恋愛成就の神様なので」
彼は悠々とした笑顔で視線を返した。布の横から、チラリと彼の視線が垣間見える。
「身体安全の神様でもあるでしょう」
今度は咎める口調で言うけれど、ヤオタミは清々しい調子のまま「身体なので精神は含まれていません」と言った。それが彼女の癇に障ったらしい。次に発せられる言葉は、いつになく刺々しかった。
「そういう精神面だけ守ろうとしないところが、昔から嫌いなんですよ」
「あなたは人間に感情移入しやすいんですよ、昔から。なんでもかんでも守ればいいと言うものではありません」
ヤオタミは、冬空の晴天のように清らかな話し声で諭した。
「人間は生きてさえいれば、必ず前を向ける生き物です。だから私は、人間から危険を少しだけ取り除いてあげるだけ」
「……」
咲希は反論しなかった。代わりにその場に煙草を捨てて火消しをする。
「あ、コラ!境内にゴミを捨てないの!いいんですね?本当にバチ当てますよ!」
「当てれるもんなら当ててみろ、神様なんてよっぽどのことがなければアドバイス止まりだろ」
そう吐き捨てて、彼女はそのまま鳥居にさっさと歩いていく。そんな彼女にヤオタミは気掛かりなことを言った。
「アドバイスもなかなか良い効力を持っているんです。例えば、さっき私が言ったことなんかも結構良いところを突いていますしね」
「さっき言ったこと?覚えてないな」
咲希はヤオタミに向かって振り返る。
するとヤオタミは布の裾を少しだけ捲って、物語の悪役のような含み笑いを露わにした。
「『ちゃんと足元を見てください』。覚えておくと最悪の事態を避けられるかもしれませんよ」
その笑みの意味を理解できなかった咲希は、「はいはい、気をつけますよ」と言って適当に手を振り去っていった。
(そういえば、あいつに言ったアドバイスってなんなんだろうな)
そう思ったのは、既に鳥居を越えて十分も歩いた頃だった。
* * *
文化祭は土曜日に行われたので、次の登校日は振替休日を挟んだ火曜日になった。その日は通常通りに授業をした後、文化祭の片付けを行う予定人になっていた。
舞台のセットや装飾品は既に別の教室に移動させており、今日はそれの断捨離が主な仕事である。クラス中がそれぞれ分担して物を片付けていく中で、俺は期せずして咲希と二人きりになる機会があった。
「ゆう、悪いけど来てくれるか?荷物運ぶのに片付けが必要なんだ」
劇には効果音を用いたので、演劇部が所有する音響機材を借りてきた。しかしその重さは女子では落とす危険性があって、咲希はコードを折り畳んで袋にしまっていた俺に声をかけてきた。
「…!おう、分かった」
俺は驚きつつもコードを友人に預けて、機材を抱え教室を出る。その場にいた男子全員がニヤついていたのは言うまでもなかった。
「ねぇ、なんで俺なの?男手なら他にもいたじゃん」
別館三階にある演劇部の部室に機材をしまった後、俺は同じく重い機材を運んで一息ついていた咲希に尋ねた。
「一服したかったからな」
彼女はそう言って、ブレザーの内ポケットからライターと煙草の箱を出し始める。流れるように火を付けてベランダに出るあたり、その言葉は本当のようだった。
「で、ですよねー…」
覇気のない声を出しながらも、胸の中では心臓がとくんとくんと高鳴っている。頭では分かっていると言うのに、この心は数ある男子の中で自分が選ばれたことを限りなく嬉しく思っているのだ。
この気持ちはもう、止められる気がしない。どんなに目を逸らして知らないふりをしようとしても、嫌と言うほど胸を締め付けて変な気分になるのだ。好かれたいと思いながら喋ろうとすると、口が勝手に動いて自分の言いたいことを言えなくて苦しくなるのだ。ならばもう、言ってしまった方が楽ではないか。
熱い視線を俺は彼女の背中に向ける。それを彼女は背中越しに雰囲気で分かっていた。
「俺…さ」
一歩踏み出して、言葉がいよいよ音になろうとする。
「……俺、咲希のことがっ…」
その時、目の前を黒い翼が塞いだ。
俺は目を見開いた。それは明確に俺と咲希の間に壁を作っていたのである。
白い煙を吐いた彼女は、冷ややかな声で言った。
「私は堕天使だ。道徳に背いた行いをした天使。私はお前たち人間が言うところの、犯罪者なんだから」
ヤオタミから聞いていた。咲希はとある事件を起こしたことがあると。
「……お前は、どんな罪を犯したんだ…?」
咲希はいつものように交わすことなく、実にはっきりとした声でさらりと答えた。
「殺人」
そうして彼女は、俺に自分の忌々しい過去を語り始めた。
* * *
灰色の空がしんしんと白い雪を地面に積らせる真冬、私は交通事故に遭った。事故死だった。横断歩道を渡っていた一人の小学生を、赤信号を無視して曲がってきた車から庇って死んだらしい。
死後の世界ではその善行を讃えられて、とある神様の天使になることが決定した。それがヤオタミだった。
天使の仕事は神様のご利益を人間に配ること。ヤオタミは恋愛成就と身体安全の神様で、自分は身体安全のご利益を配る役割を任された。
「あなたのお仕事はズバリ、人間が幸せになれる手助けをしてやることです」
最初ヤオタミにそう言われた時は、なんて大それた仕事を請け負ってしまったのだろうと思った。けれど実際にやってみるとことのほか楽で、気持ちが良かった。
自分が誰かの命を救うことができた。誰かの幸せを守ることができた。笑顔を作ることができた。そう思うと今まで何にも成し遂げたことがなかった自分が急に誇らしく思えて、救った人間たちの笑顔が自分の子供のように愛おしく思えて、前向きに仕事を頑張ることができた。
しかし、それは最初だけだった。
ある日、ヤオタミはいつものように仕事のリストを渡す時にこう言った。
「今日はあなたにとって非常に特別な日ですね」
「はい?」
「リストに、浅羽薫子(あさはかおるこ)という子がいるでしょう?」
私はバインダーファイルのページをめくる。そこには今日ご利益を配る人間たちの情報が載っていて、三ページ目にその名前を見つけた。
「いますけど」
「その子はあなたが命を賭して庇った子です」
「え?」
驚いて名前の隣にある顔写真を見る。紺色のセーラー服を着ている彼女の顔に見覚えはない。当たり前だ。もう十年も経っているのだから。
「そう、なんですか…」
「光栄ですねぇ、二回も救うことができるのですから」
「……そうですね」
私は唇をほころばせて、バインダーを閉じた。胸の奥がほかほかと温かい。
一回目はほとんど顔も見ず咄嗟に助けたけれど、こうして再び会える日が来るだなんて。二回も命に危険が訪れるのはあまり喜ばしいことではないけれど、私は純粋に再会が嬉しかった。何か不思議な縁があるのではないかと思うほどだった。
今はどんな風に笑っているだろう。元気にやっているだろうか。友達はたくさんできただろうか。あの時とは違い、恋人なんかを作っているのだろうか。そう期待を膨らませながら再会したことを、私は今でも後悔している。
私はそこで、黒よりも深い絶望を宿した人間と出会った。
久しぶりに再会した顔。そこにはまるで生気の感じられない瞳が乗っていた。何の感情もこもっていないその表情はもはや死人と等しい。言うなれば木偶の坊のような無気力さで電車を待っていた。
線路の奥の方に電車が見えてくる。彼女はそこに、自ら歩んでいく。
「ダメっ!!」
私は反射的にご利益を使って彼女を踏み留まらせた。
彼女はその場でつっかえったように立ち止まり、電車は無事にその場に到着した。扉が開いてたくさんの人が行き交う中に、彼女は機械的に進んでいく。
「あーあ、死に損なっちゃった」
振り向きざまにそう呟いた彼女の顔を、私は一生忘れられないだろう。
それ以来、彼女とは毎日のように仕事で顔を合わせるようになった。どうやら彼女は学校でいじめを受けているらしく、毎朝学校に近いヤオタミの神社で熱心に願っているのだという。
「私を死なせてください」と。
彼女の他にも、同じように生きながら死んでいる人間を私は何人も見た。みんな今日を生かしても明日に死にたいと願う者ばかり。私の願いなんて本当にちっぽけなものだった。
(死にたい)
「ダメだよっ」
(誰か、私を殺して)
「死なないでっ!」
(もう楽にして)
「死ぬなっ!!」
(止まらせてください)
一体いくつの願いを聞き、叫び、切望し、ご利益を配ったことだろう。自分の願いは彼らを余計に苦しめると分かっていながら、それでも私は仕事だからと彼らの心を殺し続けた。
中にはその結果、自殺してしまう人間も沢山いた。彼らだって子供の頃は無邪気に笑って駐車場を走り回っていたのに、やがて心に溜まった汚水をろ過しきれなくて、最期はみんなあっけなく死んでいった。
そのうちに私の心にもその汚水が流れ込んできて、それは美しい涙として両目から流れ出すようになった。
どうして私はこんなことをしているのだろう。人間の笑顔を見たくて頑張ってきたのに、自分の行いはむしろ死にたがる彼らを苦しめるものなのではないか。天使は人間が幸せになる手助けをしてやるのが仕事なのではないか。自分は一体、何のために彼らを生かしているのだろう。
これが本当に、救いなのか?
私はひたすらに考え続けた。何が人間たちにとって救いになるのか。何をするのが彼らの幸せを助けるのか。
それは、決してやってはいけない行為だった。
そうと気付いたのは、車の衝突音が聞こえた直後だった。
「キャーっ!!」
「誰かっ!救急車を呼んでくださいっ!」
「薫子っ!!薫子っ!!しっかりして!」
横断歩道の上に、薫子が倒れていた。すぐそばには白い軽トラックが止まっていて、フロント部分が歪んでいる。周囲は騒然としていた。
ちょうど私が死んで薫子を助けたあの場所で、今度は薫子が頭から血を流していた。
「頑張ってなぁ、薫子…!きっと大丈夫だ…!十年前だって、あのお姉さんが助けてくれただろ…!?だから大丈夫…!今回もきっと何とかなるよ…!」
十年前。私が死んだ年。
「あ…」
私は自分の行いを理解した。
「あぁ…!」
自分はご利益を使わなかった。つまり、意図的に交通事故を引き起こした。これは天界のルール、「人間に危害を加えてはならない」に違反する。
「ぁああああ…!!」
私は道路の真ん中に蹲った。誰にも聞こえない天使の号哭が、人混みのざわめきを凌駕する。どれだけ声を荒げてけたたましく叫んでも、自分の翼が再び真っ白に染まることはなかった。
後悔が、胸の奥底にある心臓を憎々しく潰さんとする。けれどその心臓はどれだけ自分の胸に爪を立てても、アスファルトに右手を打ち付けても止まることはなかった。体を傷付けることで得られる痛みでしか心を慰められないというのに、その痛みさえ天使の体であるが故にすぐ治ってしまう。
私はそのうち、涙を枯らして歩き出した。無意識に大通りから逃げて、あてもなくふらふらと歩いていく。
天界に戻ったら自分は殺される。ルールを違反した天使は死刑に処されて、再び人間に戻されるのだ。けれどそれでもいい。起きてしまった現実は変えられない。私はもう死して償うことしかできないのだ。いいや、もうそんなことはどうでもいい。もう死んでしまった方が楽だ。
あぁ、こういう気持ちなのか。私は誰もいない公園のベンチに座って、自分が今まで救ってきた人間たちの気持ちを理解した。
苦しい。辛い。消えてしまいたい。殺して。誰か殺して。痛い。心が痛い。誰か。助けて。でも。それでも───
「なぁアンタ、大丈夫か?」
私は声をかけられて、のっそりと顔を上げる。
目の前には、泣きぼくろのある猫目の男性が立っていた。
「今にも死にそうな顔してるが…」
「…そう見えるか?」
「あぁ、今にも自殺しそうな顔をしてる」
そう言う彼の目にはクマがあって、今にも自殺してしまいそうな顔をしている。私はそんな顔を見慣れているせいでむしろ気にならなかった。
「…そうだな、死にたいよ」
私は俯いて、地底の底に呟くような声色で言った。
もし処刑を免れて再び天使の仕事をできるようになったとしても、私はもう続けられる自信がなかった。それどころかもう自分を生かす感情さえ湧いてこない。世界でたった一人生きているみたいな空虚感が、私の脳と心を飽和していた。
するとその人間は隣に座り、「聞かせてくれ」と言った。私はチラリと彼を見やる。
「俺も今悩んでいることがある。だから、アンタを通して今の自分がどう見えているのか知りたい」
その人間はまっすぐと正面を見たままそう言った。その言葉には不可解にも、心を病んでいる人間独特の無気力さと、人間が持っている強い意志の二つが乗っていた。瞳は濁っているのに拳は硬い。
私はフッと鼻で笑った。
「変わったやつだな、知ってどうする」
「今の自分の惨めさを心に刻んで、それをバネにして頑張んだよ。俺はこんなに惨めなヤツじゃねぇぞ、本当はもっとスゲーヤツなんだぞって、相手に見せつけてやるんだ」
今度は強がった笑顔でこちらを見る。隣からしっかりと見据えたその人間の顔色は、明らかに普通の人間のそれではなかった。目の下には黒いクマがくっきりと刻まれており、瞼が時おり痙攣しているように見える。けれど、表情は太陽に向かう向日葵のように前向きだった。
その前向きな笑顔が眩しくて、私はつい顔を逸らして俯いた。
「……私は」
そうしてその前向きな態度に絆されて、自分の事情を少しだけ彼に吐き出すことにした。
「私は、人を助ける仕事をしてるんだ。今にも死にそうな顔をしてる人間たちが、本当に死んでしまわないようにするための仕事をしてる」
天使とは言わなかった。人間に言っても信じてもらえないだろうし、そもそも自分の翼はもう白くないから。だからその人間は私の職業をカウンセラーか何かだと勘違いしたのだが、そんなことに私は興味もなかった。
両手で目を覆い、私は続けた。
「でも、ずっとそんな奴らを見ているとこっちも疲れてくるんだ。何で助けてるんだろう。あんなに苦しんでいるのに、死なせないなんて逆に酷じゃないのか。どうせ助けてもそのうちまた死にたいと思うだろう。ならいっそ、次の苦しみを知る前に死なせた方がいいんじゃないかって」
隣に構えられたその人間の顔が段々と萎れていく。そんな無駄なことを考えていたから、結果的に人間を死なせてしまった。いいや、明確な意志を持って殺したのだ。天使にあるまじき失態だ。でも───
「でも、なんでだろうな」
その人間は顔を上げてこちらを見た。
私は両目を覆っていた手を、口元まで引き下げる。
「それでも私は、生きて欲しいと思っている」
私の言葉に、その人間はこれ以上ないほどに目を見開いた。
「人生ってのは良くも悪くも長い。いつか、苦しい以外のいろんなことを知って、いろんなことに気づいて、「白と黒以外の感情」を知ってほしい。苦しみだけが全てじゃないことを、知って欲しい。なんて無責任で身勝手な考えだろうとは、自分でも思ってるけどな…どうだ、最高に惨めだろ」
私はそう笑いかけて隣を見る。すると今度はその人間が顔を両手で覆っていた。すすり声が聞こえるから、泣いているらしい。
「なんで泣く」
「いや……」
私が尋ねると、その人間は吹っ切れた笑顔を持ち上げて「優しいな」と言った。まるで冬の青空のように澄んだ笑顔だった。
どこが。私が優しい訳がないだろう。ついさっき、お前と同じ人間を殺してきたんだぞ。
私には、その感情がまるで理解できなかった。
* * *
それをきっかけにして咲希は堕天使になったという。本来ならその時点で消滅させられるはずだったが、上司であるヤオタミが慈悲をくれて、人間として生きる休職期間に天使としての感情を取り戻す条件をつけて、咲希を生かすと皆を説得してくれたらしい。
「でも、無理だろ」
咲希は吐き捨てるように言った。
「私が感情的に生きたら、また同じような事件を起こす。天使にとって、「白以外の感情」はゴミなんだよ。無くすべきものだ」
強い口調で彼女はそう言った。その言葉には並々ならない覚悟と後悔が込められている。
けれど俺は、そんなことが気にならないくらいに衝撃を受けていた。にわかに信じがたいが、知ってる情報が綺麗に全て一致している。これは、絶対に彼女に伝えなければならない神様から貰ったチャンスだ。
「違う!」
俺は感情を先走らせて言った。
「咲希の感情は無駄じゃない!意味があったんだ!だって俺の兄はっ、咲希に救われたんだから!」
咲希が公園で偶然に出会ったという泣きぼくろと猫目の特徴を持った男性。彼はきっと、俺の兄なのだ。
「兄は公園で会ったカウンセラーに心を救われたって言ってたっ。十年前だっ。兄は、咲希の言葉があったから今も前向きに生き続けてる!俺だってそんな兄に救われた!咲希の感情が、二人の人間を救ったんだ!」
潤んだ瞳に僅かな光を灯らせた咲希の瞳が、俺の顔を鮮明に捉える。兄とそっくりな猫目と顎の下にあるホクロが、ぼんやりしていたあの時の人間と重なった。
「でも私には…もう天使としての感情がない。助けたいなんて感情、もう湧き上がらな───」
「言ったでしょ、引きずり出してあげるって」
その時、俺はベランダの柵に飛び乗った。幅は十センチもないほど細く、足の裏がちゃんと乗り切っていない。
咲希の頭にヤオタミの助言が蘇った。『ちゃんと足元を見てください』。
咲希は瞬時に理解した。注意すべきなのは自分の足元ではなく、俺の足元であると。
「ばかっ」
俺は余裕の笑みで、三階のベランダから落ちていった。
咲希が咄嗟に飛び降りて俺を助けようと手を伸ばす。ゴウゴウと吹く風の中で必死に俺の手を掴み、翼を展開しようとするけれど、自分の翼はもう飛べないのだと今更に気付いた。このままでは二人とも死んでしまう。
横断歩道に広がる血溜まりがフラッシュバックする。口を開けたまま、天使の自分よりも白い肌になっていった薫子。
(そんなことさせるか…)
咲希は歯を食いしばった。
もう二度とあんな結末は繰り返させない。絶対に。今度は。今度こそ───
(助けるっ!!)
その瞬間、白い羽が宙を舞った。地上まで残り一メートルという寸前で、俺は美しく靡く白銀の髪を見た。
咲希の背中からは、清廉潔白という言葉がよく似合う真っ白な翼が生えていた。
「っ…ヤオタミの入れ知恵か、身体安全の神様がなに勧めてやがる」
髪と肌と瞳を白く染めた咲希は、汗を滲ませた顔で怒りの言葉を口にする。
「前に俺を突き落とした仕返しがしたくてね」
「この野郎…」
俺はそんな彼女にしたり顔で言った。
「助けたな。感情的に」
彼女は驚いたように瞼を持ち上げた。それから根負けといった顔で笑い、「完敗だな、クソ」と呟いた。
するといきなり地面から急に突風が立ち上って、俺は目を瞑った。咲希も空中に浮かんだまま俺の体を引き寄せる。
その突風は俺たちを上空まで浮かび上がらせると、すぐ近くにある神社の境内まで丁重に運んでくれた。そこでは全て計画通り、といった余裕ぶりでヤオタミが待っていた。
「無事、天使に戻ることができたようですね」
石畳に着地した咲希はしてやられた、という反応を見せて文句を言った。
「危なかっただろ、なにが身体安全だ」
「そのためのアドバイスですよ、言ったでしょう?足元には気をつけろと」
咲希はむっと黙り込む。こうしてみると咲希はヤオタミに立場とは関係なしに敵わないようだ。
「約束通り、貴方には報酬を与えましょう」
ヤオタミはこちらを見て嬉しそうに言った。咲希は俺たちが交わした取引について何も知らないので、小首を傾げている。
そんな彼女にヤオタミは説明した。彼女を天使に戻す報酬として、俺を死後、天使にする取引をしていたと。
「はぁ!?」
咲希は今まで聞いたことがないくらい大きな声を上げた後、断固とした態度で「ダメだ」と言った。ヤオタミは「ほらやっぱり」と笑ってこちらを見る。続けて咲希もこちらに厳しい視線を向けた。
「ゆう、悪いことは言わないから天使だけはやめておけ。絶対に後悔するぞ。だいたいなんでこんな苦労をしてまで天使になりたがる?」
俺は目を逸らして沈黙する。対する咲希はその場の空気に違和感を覚えたのか、はたまた俺のほのかに赤い耳の頂点に気付いたのか、同じく口を閉口させる。
「……一度しか言わないから、よーく聞いてね」
重い口を割る俺に、咲希は前回と同じくその内容を察知した。けど今回は、止められなかった。
俺は頬を赤く染めながら、大きく息を吸い込んで、覚悟を持って伝えた。
「俺は、咲希のことが好きだ。ずっと咲希の側にいたいし、支えていたいと思う……これ以上の説明はいらんでしょ」
咲希の顔は、困るとも、嬉しいとも判別できない表情を浮かべていた。やがて大きなため息をつきながらその場に座り込み、両手で目を覆う。
できることならば、コイツにだけは天使になってほしくない。コイツのような社交的で良い奴が病んで職場を去っていくところを、もう見たくないから。でも。
コイツはきっと紆余曲折を経て乗り越えていくのだろう。最後には明るい未来の中にいる。そういう立派な人間だ。心配なんて、本来ならする必要がないのに…。
知ってしまった。こんな感情、知りたくなかった。コイツと一緒にいれて嬉しいだなんて、コイツの笑顔を欲しがる気持ちなんて、知りたくもなかった。
だって知ってしまえば、きっと私は正気ではいられなくなる。こんなまっすぐで逞しい人間を、好きにならないわけがない。コイツと同じ場所で生きられることが楽しみであると同時に、自分が自分でいられない気がして怖くなった。
けれど、不思議と拒絶する気にもならなかった。
「分かった」
咲希は立ち上がり、くるりと俺に背を向けた。
「せいぜい、残りの人生を謳歌するといい…」
真っ赤な耳が、白髪の中で際立っていた。俺はその後ろ姿に笑ってやる。
「おう。死ぬ前にお前への手土産として、たくさんの感情を知ってやる」
そんな二人のやり取りにヤオタミは微笑んで言った。
「では、契約いたしましょう。貴方に印を付けて、輪廻を司る神に話を通しておきます」
ヤオタミの手が俺の額にかざされる。すると眩い光に照らされて額にヤオタミの紋章が刻まれた。それはすぐに消えてしまったが、不思議とふんわりしていた咲希の記憶がきっちりと脳みそに焼き付いたような気がした。
「これで貴方は時間が経てども咲希のことを忘れません。それでは、良き人生を」
そうして二人は泡沫となって姿を消した。神社の境内に一人だけになる。
なんだか寂しい気持ちになるけれど、今はそれさえも大事な宝物のように思えた。
これから先、自分の人生の中でたくさんの「白と黒以外の感情」を経験するだろう。屋上から突き落とされた時よりも強い衝撃や、クラス単位でいじめられた時よりも深い絶望、好きな人が過去のトラウマを自分のおかげで乗り越えた時よりも激しい幸福感を感じることになるだろう。
けれど、俺はそれを恐れない。自分を天界で待つ想い人のために、「色彩」という名の膨大な感情を土産にして死ぬのだ。そのためには立ち止まっている暇なんかない。
彼女の待つ天界を、自分が何十年後に生きる予定の空を見上げて、俺は歩き出した。
さあ頑張るぞと、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
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