悪魔を育てる

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 私には昔からずっと一緒にいる友達がいる。ただ、それは人間の友達ではない。悪魔だ。  初めて出会ったのは、まだ幼稚園の頃のことだ。その時のことは、今でも覚えている。出かけている両親を待って一人で家にいるときに、悪魔は現れた。その時私は一人で寂しかったから、驚いたり怖がったりするよりも、嬉しい気持ちの方が強かった。それから、私たちはずっと一緒にいる。学校に行くときは悪魔もいつもついて来ていたし、今はもう社会人になったけれど、会社へ行くときもいつもついて来る。  それが周りに不自然に思われないのは、悪魔が他の人には見えないからだ。悪魔と出会ったばかりの頃、親にそのことを話したけれど、何を言っているのかと気味悪がられて、それ以来、悪魔のことを人には話さなくなった。高校の頃に、その悪魔はもしかしたら私にとってイマジナリーフレンドのような存在で、実際には存在していないのではないか、ということに気付いたのだけれど、それに気付いても悪魔は消えることはなかった。だから、きっと本当に存在するのだと思うようになった。  悪魔は、基本的には無口で、私の傍にいるだけだ。話しかけると頷いてくれたりするけれど、向こうから話しかけてくることはめったにない。全く話さない訳ではないけれど、悪魔と話すと、自問自答のような感じになるから、本当に悪魔と話しているのか、自分の頭の中で自分だけで会話しているのか分からなくなったりする。そんな存在だけれど、それでもそれが悪魔だと思うのは、その見た目が悪魔だからだ。悪魔は基本的に黒くて、角が生えている。でも、怖くはない。多少不気味ではあるのだけれど、子どものような体格をしている。幼いころから仲良くなれたのも、怖くはなかったからだ。ただ、私は今はもう成長して大人になったのに、悪魔は、未だに初めて出会った頃と同じ、子どものような体格のままだった。きっと成長していないのだ。  そんな悪魔を、私は育てたいと思った。きっかけは、付き合っている恋人が原因だ。付き合い始めた最初の頃こそ、彼は優しかったのに、同棲を始めると、少しずつ彼は変わっていった。ストレスのせいなのか、私に冷たい言葉を何度も投げつける。肉体的な暴力を奮うようなことはないけれど、言葉で精神的に傷つけられる。いわゆるモラルハラスメントというようなものだ。ただ、どれだけ傷つけられても、私には、彼を突き放したり、彼から逃げようとしたりすることができなかった。人に対して悪意を向けられない、私はそういう性格なのだ。ただそれは、優しいということではなくて、私は怖がりだということでしかない。悪意を向けて嫌われてしまうのが怖い。だから、人の言いなりになってしまう。どんなに嫌な思いをしても、自分が悪いのだと考えて、その人を受け入れようとしてしまう。  そんなふうに私は、苦しみながら、彼と一緒に暮らしている。そんな私を、悪魔はただ見つめているだけだった。そうしてふと私は思ったのだ。悪魔が成長しないのは、私のせいなのではないか。私が悪意を持つことができないから、悪魔も成長しないのだ。もっと私が悪い人間になれば、悪魔も成長するのではないか。そして、そうすれば、私は彼から逃げることができるのではないか。  それから私は何とか悪意を持とうと努めた。もちろん、彼に向けた悪意だ。最初の頃こそ、人を悪く見るなんてよくないことだと感じて、罪悪感に苛まれたりしたけれど、悪魔を育てる為なのだという建前が、自分の中での言い訳みたいになり、そして彼に悪意を向け続けるうちに、慣れのせいなのか、罪悪感はなくなっていった。むしろ、彼に冷たい言葉を投げつけられるたびに、悪意は膨らんでいき、悪意を持つことに抵抗がなくなっていった。悪意を持つことが、心地よく感じるようにさえなった。そしてそれと共に、悪魔は少しずつ大きくなっていった。  そしてある日の夜中。私は、寝室で眠っている彼の前に立っていた。その日は彼のせいで、とても嫌な気持ちになっていたのだ。その日の彼は、いつもの彼と違った。これまでごめん、と謝ってきたのだ。何故なのかは分からない。本当に反省しているのか、何か理由があって反省しているふりをしているだけなのか。ただ、ふりならもちろん、本当に反省しているのだとしても、私がこれまで受けてきた仕打ちを考えると、簡単に許せるものではない。  それに何より、謝られることで、私が彼を恨み悪意を膨らませることの大義名分がなくなってしまうことが、私には苦しかった。それほど私にとって、彼を恨むことは、生きる糧になっていたのだ。そして、そう思うのと同時に、もし幸せだった頃の、本当に最初だけの頃の彼に戻ってくれるのなら、という気持ちも少し沸いた。それがますます私を苦しませた。  そんな私の苦しみを見抜いたのか、悪魔が勝手に動き始めた。こんなのは、初めてのことだった。悪魔は、彼の方に近づいていく。いつの間にか悪魔は、手に包丁を持っていた。そして躊躇する様子もなく、包丁を持った手を振り上げる。  私の頭の中で、感情が目まぐるしく動いた。悪魔を止めなければ、という感情。むしろ、悪魔の背中を押そうという感情。第三者として傍観していようという感情。私は夢を見ているのだという感情。そして結局私は、何もしなかった。  包丁が何度か振り下ろされ、彼のうめき声が聞こえた。私は、悪魔がすることをただ見ていることしか出来なかった。これは悪魔がやっていることであって、私がやったことではない。そう思うと、罪悪感もそんなになかった。むしろ、彼の自業自得だとさえ思った。  そうして彼が動かなくなり、悪魔がこちらを見て微笑んだ。その途端、何故か私は恐ろしくなって、部屋を飛び出した。フラフラと歩きながら、気持ちを落ち着けようとする。私がやったのではない。悪魔がやったのだ。全て彼の自業自得。私は何も悪くない。信じてもらえないかもしれないけれど、私は包丁だって握っていない。きっと大丈夫なはずだ。  そう思おうとしたけれど。  ふと周りを歩いている人たちが怪訝そうにこちらを見ているのに気付いた。それから手元で何かが反射しているのに気付き、そちらを見ると、私は血で汚れた手で、包丁を握っていた。あぁ、あれは悪魔ではなく、私がやったことなのだろうか。  こちらの方にかけてくるような足音が聞こえた。警察が私を捕まえに来たのかもしれない。そう思ったけれど、振り返ると、かけてきたのは悪魔だった。悪魔は私の隣まで来ると、黙って微笑み、私の手を握った。やはり私たちはずっと一緒なのだ。 「逃げてしまってごめんね」  私がそう言うと、悪魔は微笑んだまま、小さく首を振った。そしてそのまま私たちは、何処へともなく、歩いていった。
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