一話:フローの放課後

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一話:フローの放課後

「エインズ、待ってよ、エインズ」  フローは、木製の廊下をせわしなく走っていった。  今日の授業はおわり、教室や廊下の生徒たちはまばら。  皆が思い思いの放課後へと歩き出している。  フローもエインズもそのうちの一人ひとりだ。    フローに気づいたエインズは、振り返ると立ち止まった。  エインズがフローに優しく微笑みかける。 「ごめんごめん、フロー。ゆっくり歩くよ」 「ううん。僕こそごめんね。今日もアトリエ?」 「うん。新しい絵を描きたくて」  じゃあ行こうか、とエインズが手をさしのべる。  フローは頬を少し赤らめながら、その手を取った。  歩くのがゆっくりなフローに、エインズの歩調が合わせてくれる。  廊下の窓から見える景色に、フローの目はしょっちゅう奪われる。  そんな時、エインズがさりげなく、「あれは噴水」「あの木はキンモクセイ。秋になったら咲く」というふうに、フローの好奇心を撫でてくれる。 「フロー。ここにはもう慣れた?」 「うん。先生は辛抱強く勉強を教えてくれるし、教室のみんなも寄宿舎のことを教えてくれるし。それに……エインズが助けてくれるから」  はにかむフローがそう答えると、エインズも照れたように笑う。    *  庭園寄宿舎。  街ひとつほどの規模を持った、少年たちの花園である。  6歳から18歳までの男子が立ち入る秘匿の庭園とも呼ばれるからか、庭園寄宿舎と、名がついた。  ここに女性はいない。  先生も庭師も医師も、カフェテリアの職員も全員男性だ。  フローはこの寄宿舎に、二か月ほど前に来たばかりだった。  両親と早くに死別した彼は、最近まで孤児院で過ごしていた。  孤児院の経済的事情か、本心からフローの進路を心配してくれていたのかは定かでないが、孤児院と寄宿舎側がフローの入学を決めた。  フローはもともと楽観的な性格をしていたからか、急な取り決めにもそれほどの不満を持たなかった。  それどころか、孤児院しか知らなかった自分の世界が広がる、と楽しみですらあった。  ここには生徒たちの生活する二人一部屋の寮がある。  フローのあてがわれた部屋にはすでにエインズがおり、彼がルームメイトであると知ったのだった。 「今はどんな絵を描いてるの?」 「建物の絵。夜で、月が出ていて、古い建物から空を見上げているような」 「わあ……聞いただけでわくわくしてきた。完成が待ち遠しいな」 「気が早いよ、フロー」  フローの足取りは弾んでいる。  寄宿舎でエインズがルームメイトになったときも心が躍ったが、今はなおいっそう胸を高鳴らせている。  エインズに連れられ、フローが着いた場所は、アトリエだった。  教室の半分くらいの広さのアトリエには、木製椅子と木製の机、そしてイーゼルとキャンバスが置かれている。  棚には絵の具やスケッチブック、彫刻刀といった美術のための画材がすべてそろっており、棚の一番手前には、使い込まれた絵の具と筆が大切にしまってあった。  エインズはその筆と絵の具を取り出す。  これらはエインズのための商売道具だ。  キャンバスはまだほとんど真っ白で、色はほんの少ししかない。  これからこのキャンバスに、美しい色が飾られていくかと思うと、フローはわくわくしっぱなしだ。 「完成が楽しみだよ。また、すてきな絵が増えるんだね」 「そうかな……。そういってもらえると、うれしいかな」  絵の作者であるエインズは、後頭部をかりかりと掻いた。  このアトリエの隅っこには、描き上がった絵がいくつも置かれている。  すべてエインズの絵だ。 「ね、あっちの絵、見てていい?」 「もちろん。好きなだけ眺めてて。僕は描いてる」 「うん。静かにしてるね」  エインズはキャンバスの前に座ると、瞬時に黙った。  背筋を伸ばし、鋭い眼差しで目の前の白い世界を見据える。  エインズの邪魔にならないよう、フローはアトリエの中にある絵をひとつひとつ見ていった。 (どれもきれいだな……)  ほーっ、とフローはため息をつく。    エインズは、この寄宿舎で抜きんでて秀才的な絵描きだ。  授業が終わると、いつもこのアトリエにこもって絵を描いている。  彼は自分の絵を、あまり人に見せたがらない。  このアトリエも、寄宿舎の忘れられたような余り部屋にすぎない。  教室棟の端にあるためか、誰もこんなところに好んで寄りつかないのだ。  エインズが入学して数か月後、この捨て置かれたような教室を見つけて以来、隠れ家として使っている。    エインズが一人で自由に絵を伸び伸びと描ける、絶好の場所だった。  完成した絵は、教室棟や寮棟のロビーなど、人の目につく場所へ展示される。  描いている最中の絵や自分の姿を、彼は人に見せようとしない。  しかし、フローだけは特別に許してもらっている。  絵を描く姿だけでない、秘密で特別だといって、スケッチブックを見せてもらってもいた。  絵を描いているエインズの背中を眺めるのが、フローは好きだ。  西日のまぶしいこの時間、無為に時間が過ぎていくのが、とてもいとおしい。  隅っこに保管されたキャンバスを、フローはひとつひとつ大切に眺めていく。    寄宿舎の噴水の絵、教室棟の屋上の花壇の絵、寄宿舎の絵だけでなく、外とおぼしき絵もいくつか見受けられた。  外の絵は、フローの知らない世界だ。    エインズが今描いている絵も、外の絵だ。  完成したら、一番に見せてくれるとエインズに約束してもらった。 (エインズの、この絵たちと、絵を描いているエインズを見ながら、エインズの絵ができ上がるんだ……)  フローは、深く微笑んだ。
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