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四、噴水と雨
早い昼食をとったあと、アリステアは教室棟を一通り探検した。
移動教室の生徒たちと時々すれ違った。
リドリーの顔見知りが何人か挨拶をしてくれた。
だが、誰もがアリステアを存在しないもののように扱った。
(まあ、供物なんだから関わりたくない、のか……)
リドリーはひとり納得した。
教室棟を探検した後、寄宿舎を出て再び外に出る。
アリステアの興味は、もっぱら外に向いていた。
庭園寄宿舎の名物其の二。
寄宿舎を出てすぐの所にある、中庭である。
ところどころに水路が引かれ、耳を澄ませば水の音がかすかに聞こえてくる。
植林された木々がざわめき、葉を落としていく。
キンモクセイの香りが甘く漂ってきた。
花壇には季節の花が植えられ、庭を彩っている。
白いベンチには塗装の剥がれひとつ見当たらない。
ここで生徒たちが歓談したり食事を共にしたり、憩いの場として最適だった。
白い石のタイルをとんとん、とアリステアが飛び跳ねていく。
それをとがめる者はだれもいない。
ただリドリーが、見守るだけだ。
中庭の中央には噴水が建っている。
日によって水は出たり出なかったりしているが、今日はちょろちょろと噴き出ていた。
アリステアの好奇心を揺さぶるには充分だったようだ。
アリステアの緑眼がきらめき、噴水へまっすぐ駆けだしていく。
「わあ」
アリステアはしげしげと噴水を眺めている。
縁に手をついて乗り出す。
前のめりになって、じりっ、と顔を噴水の水に近づける。
今にもバランスを崩して落ちそうだ。
「あぶない」
「わっ」
リドリーはアリステアの襟首をつかんで優しく引き戻した。
「そのまま水の中に落っこちるとこだったぞ」
「そう? 気づかなかった。ありがとう、リドリー」
「……そんなに噴水が珍しいのか」
「うん。見たこと無かったから!」
「そうか」
「リドリーは? それとも噴水ってどこにでもあるのかな」
「どこにでも、ではないと思うが、見る機会がないほど珍しいわけでもない、と思う」
「へぇー。あ、ねえねえこっちの花は?」
アリステアは花壇の花に興味を持った。
「そっちはコスモス。秋の花。道端とかによく咲いてるらしい」
「らしい、って?」
「寄宿舎の外、もうずっと出たことないからわかんないんだ」
「そっか。リドリーは、生まれたときからここにいたの?」
「いや、6歳ん時に来た。もう外のことは忘れてる」
「そう。お外に出たいと思ったことはある?」
「ない。……でも、ま、今年の3月には出なきゃならないんだけどな」
庭園寄宿舎の入学条件は、6歳から18歳までの男子である。
18歳の年までに進路を決め、寄宿舎を出なければならない。
リドリーは今年で18歳になった。
おぼろげながらに、進路のことを考えていた。
「あ、リドリーは18歳なんだね」
「まあな。今年の夏から本格的に進路指導が始まってる」
「そうなんだ。リドリーは何かしたいことある? お外に出たらやってみたいこととか」
「……べつに。外にはあまりいい思い出がないから」
「へえ……じゃあ、寄宿舎に就職するって手もあるね」
「はは、俺は教師に向いてないからな」
「設備の管理人って手もあるよ!」
「俺手先が不器用だから」
「そんなことないよ! リドリーの手はとっても細やかなことが得意な手だ」
いうとアリステアはリドリーの手を取った。
柔らかく、少しだけ温い手だった。
「念入りに手入れされた手だね。針に糸を通すのも、固まった糸をほどくのもお手の物だ」
「わからないぞ?」
「僕にはわかるよ。とっても慈しみに満ちた手だ。ずっと触れていたい」
アリステアがその手を自分の頬に持っていく。
ふと目を細めて、頬を擦り付けた。
アリステアの頬に赤みがさす。
さっきまでは冷たかったけど。
「あれ」
ぽつん、とリドリーの手首に水滴が滴る。
空を見上げると、曇天が雨を降らせていた。
さあさあと小雨が降りそそいでくる。
アリステアがわあ、と口を開いて空を見上げていた。
その緑眼が煌いているように見えたのは、リドリーの錯覚なのかもしれない。
「屋根のある所にいくぞ」
「え、もうちょっと雨浴びたい」
「ばかいうな、風邪をひく! ほら」
「わっわっ、待って、走る、走るから!」
リドリーがアリステアの手を引っ張り駆ける。
中庭から一番近くの授業棟に飛び込む。
そのころには、雨が本降りになってざあざあ音を立てていた。
本降りになる前に雨宿りに成功したのは運が良かった。
リドリーもアリステアも、髪と袖を濡らしただけでそこまでひどくはない。
生徒たちのざわめきがあちこちから聞こえる。
そういえばもう放課だったのだとリドリーは気づいた。
供物を連れている以上、あまり人目につくのは思わしくない。
リドリーは独断で空き教室に転がり込んでしまった。
(……いや、部屋に戻って風呂に放り込むべきだった)
そう思いなおすには、もう遅かったのかもしれない。
誰もいない、薄暗い教室に、ぽつんと、供物と番人だけが残った。
アリステアの髪先から水が滴る。
本人はそれも気にせず窓から雨空を眺めている。
薄暗い部屋でアリステアの横顔が鮮明に、リドリーの目に映る。
アリステアの緑眼が、憂いをにじませていた。
「……アリステア?」
「うん?」
「生徒の足が落ち着いたら、俺の部屋に行こう。簡易だけど浴室あるし、着替えもあるから」
「いいの、お邪魔しても?」
「良いよ。供物が風邪を引いたらたまんないだろ。寝るときに隠れ家へ戻ればいいんだから」
「それもそうか。ありがと、リドリー」
にへっ、とアリステアが間抜けな微笑を浮かべた。
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