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第1話「健忘症の男の子」
6月
君野吉郎(きみのよしろう)は2ヶ月前の4月、交通事故に遭い、それ以来健忘症(けんぼうしょう)に悩まされていた。中学に入学する前はサッカー少年だったが、事故の影響でその夢は断たれてしまった。記憶障害により、些細なことすら忘れてしまう君野は、友達を作ることもできず、孤独を抱えていた。
クラスの教卓から見て窓側の右側。最後の席に座る君野は、休み時間の今、ノートの片隅にサッカーボールの落書きをしていた。その様子を、同じく彼の左に座るメガネで、一本の長い三つ編みの少女、桜谷瑠璃子(さくらたにるりこ)がちらりと横目で見ている。
きっと窓の外の校庭でサッカーをしている生徒たちの声に触発されたのだろう。
「君野くん、大丈夫?」
桜谷の突然の声に君野はハッと顔を上げた。
「え?あ、うん…」
君野は下を向き、落書きの上に涙がこぼれる。
桜谷は静かに君野の手を取り、その目をじっと見つめた。
「大丈夫よ、君野くん。どんなことも私がそばにいるから。」
と、涙が落ちた彼の手を握った。
しかし、桜谷には秘密があった。
彼女と君野は実は2ヶ月前に恋人同士になっていだが、事故以来、君野は毎日彼女の存在を忘れてしまう。
なぜか桜谷が君野にキスをすると
君野から桜谷の記憶や存在自体が消える
【呪いのキス】が発動するようになった。
彼は、キスすれば明日の朝には私をころっと忘れてしまうのだ。
しかし、桜谷は思いついた。
-君野くんを理想の彼氏にする方法-
それはゲームのように君野の好感度を上げ、
もし失敗しても
キスをしてリセットするというものだった。
彼の記憶をコントロールすることで、
理想の関係を築き上げることができるかもしれない。
そう信じた桜谷は、再び君野に話しかけた。
「ねえ、こっち見て。」
「ん!」
君野は右を向いた瞬間、柔らかな唇の感触に驚いた。
彼のほおを濡らす涙が桜谷のほおにもつたう。
そうよ、彼のこの涙も悔しさもなかったことにできる。こうやってキスすれば
彼はまた、明日私を忘れた真っ白な君野くんになって戻ってくる。
今度こそは、うまくやる
「おはよう、君野くん。」
翌朝、桜谷は明るい声で君野に挨拶をした。しかし、君野は首を傾げ、困惑した表情を浮かべた。
「えっと…誰ですか?」
「また忘れちゃった?私は桜谷瑠璃子。あなたの恋人なの。」
「僕、恋人いたの!?」
その言葉に君野は驚きとともに喜びの表情を浮かべた。
「そっか…忘れちゃってごめんね…。でも、嬉しいな。こんな可愛い子が恋人なんて。」
君野はそう言って照れくさそうに笑った。
でも恋人すら忘れてしまうなんて…人としてどうなんだ…
と、君野は自らの症状に落ち込んだが、桜谷はそれを見ると彼の腕を掴み、恋人のように腕をくんだ。
「行きましょう。遅刻しちゃうわ」
桜谷はそう言って微笑み彼をリードする。
学校に着く頃には馴染み深くなった2人。
「あれ?…僕の下駄箱どこだっけ…。」
君野は早速健忘症を発揮し、ロッカーで自分の上履きの入った場所をど忘れし、右の人差し指が何度も宙で小山を作る
「はい、王子様」
桜谷はすかさず君野の前に立ち、彼の上履きを差し出す。まるでお姫様に仕える騎士のように床に上靴を揃えるとそう微笑んだ。
「ごめんね…。」
不甲斐ないと申し訳なさそうに謝る君野。
桜谷はそんな君野に微笑み、首を横にふる。
「いいのよ。なんでも頼って。君野くんの力になりたいの。」
その言葉に君野も勇気づけられたのか、うんうんと頷いた。
彼女は僕の女神様だ…!
まるで嵐の中祈る信者に太陽の光が差したよう。君野の顔は一気に晴れやかになった。
しかし1年2組のクラスメイトたちはそんな君野を冷ややかな目で見ていた。
「あいつ、女子に“介護”されて恥ずかしくないのか」
と君野について揶揄する声も聞こえたが、桜谷は気にする素振りも見せなかった。彼女にとって重要なのは、君野との関係が理想の形に近づくことだけだった。
昼休み
二人は校内の自販機の前にあるベンチで一緒にお弁当を食べていた。君野は、おにぎりを頬張りながら、何度も感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、桜谷さん。僕なにも怖くないし学校生活も桜谷さんがいたらなにもいらないよ。」
その言葉に桜谷は微笑みつつ、食べかけのサンドイッチを食べている。
しかし、時たまに君野の見えない位置にはメモ帳がありそれを広げてみている。胸ポケットに入るほどのメモ帳だ。
そこには、君野の好感度が現在80%以上に達していることが記されていた。
「ねえ、君野くん。これ、飲む?」
すると桜谷は彼には飲みかけの紙パックのリンゴジュースを差し出した。
「え、いいの?僕、このジュース好きなんだ!」
君野はそれを嬉しそうに手に取る。
桜谷さん僕と同じくこのリンゴジュース好きなのかな!
いいの?飲みかけ…
飲み口のストローは桜谷が飲んでかまぼこ型になっている。
ゴクッと唾を飲み込む君野。
頬を赤らめ、
いただきます!!!
と、覚悟を決めたように残りのリンゴジュースをかぶりつくように飲んだ。
その様子を隣で見る桜谷。メモ帳には
-君野くんは一階の休憩所のリンゴジュースが好き。-
その計画は順調に進んでいるように見えた。
弁当箱を片付けた2人は、お腹を満たしゆっくりと残りの時間を過ごした。
「僕さ、体が華奢で女の子みたいって男子にからかわれたんだ…。」
ふと、悲しげな顔をして君野はそう答えた。
「中学生だもん。これからよ。」
「それにね、体毛も全く生えなくてね…。もっと男っぽくなりたいのに、このままだったらどうしようって思うんだ。」
「今は男の人もメイクするし体毛がなくたって大した問題じゃないわ」
「…うん…」
的を得ない解答に、君野は首を少し傾げる。
完璧な彼氏を作ろうとする桜谷は、どんどん曇り始める君野の顔に焦りを感じ始めていた。
話題を変えよう!
桜谷はメモ帳を一度見るとそう意気込むように話しかけた。
「あ!君野くんってさ、昔の洋楽聴くんだよね!スイーンいいよね!私のお父さんCD待ってるよ!」
しかし、その途端、君野の動きが止まった。紙パックのリンゴジュースを持ったまま目を点にして口を開けっぱなしにして放心状態に。
そして、憑き物がついたようにうなだれ
静かに口を開いた。
「健忘症になる前のことはあまり覚えていないんだけど…今はその話をしたくないんだ。」
君野の声には哀しみが含まれていた。
その瞬間、桜谷の表情が険しく変わった。
怪訝(けげん)そうな顔でうつむく君野を睨みつけ、サイレントに舌打ちをする。
「君野くん。」
彼女は君野の顎を掴み、突然キスをした。
「!?」
驚いた君野は目を閉じ、唇に残る感触を感じ取っていたが、桜谷はそのまま弁当箱などを持って無言でその場を立ち去った。
「桜谷さん!!」
君野がキスで放心状態から解放された時には、
彼女はもう遠くにいた。
彼の驚きの声が、廊下をずんずん歩く桜谷の耳にかすかに聞こえた。
「せっかくうまくいっていたのに…」
彼女は拳を握りしめ、血管が浮き立つほどの力を込める。
またやり直しだ…
「君野くんを理想の彼氏にするのよ…絶対に。」
そう弁当袋の入った袋をぎゅっと握りつぶすように力を込めた。
続く。
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