『アガスティアの葉』みたいな書物

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『アガスティアの葉』みたいな書物

 悠太は電車の中で、ぼんやりと外を眺めていた。  いつもなら、仕事帰りに居酒屋で、新人の同僚たちと軽く一杯飲んでいる頃だ。しかし、今日は違う。  母親から急に電話がかかってきた。  おばあちゃんが危篤で、すぐに病院にくるようにと。おばあちゃんは病気を患っていた。設備の整った都内の病院へ入院すべく、数年前に山奥の田舎から出てきていたのだ。娘である悠太の母親が近くにいる方が、安心という理由もあった。 ――もっと頻繁に、会いに行くべきだった。  後悔の念が胸を突く。最近はあまり良くない状態が続いていた。  電車を降り、急ぎ足で病院へ向かう。  山奥の静かな村の風景が脳裏に浮かんだ。両親が忙しかったため、悠太は小学生のころ、夏休みの大半を田舎で過ごしたのだ。  おばあちゃんと過ごす時間が長かった。  おばあちゃんは、色んな事を教えてくれたっけ。  木々のざわめき、川のせせらぎ、蝉の鳴き声――それは、悠太にとって、心のふるさとだった。しかし、中学生以降は、田舎にあまり足を運ばなくなってしまった。  病院に着くと、母親がロビーで待っていた。  悠太はその顔色から、おばあちゃんがすでに亡くなったことを悟った。赤く目を腫らした母親が「遅かったね」と静かに呟いた。 「間に合わなかったんだ……」  胸の奥に広がる重苦しい感情に耐えきれず、悠太は深く息を吸い込んだ。しばらく無言の後、母親がバッグから一通の封筒を取り出した。 「おばあちゃんがね、自分にもしものことがあったら、これを悠太に渡してくれって」  白い封筒に手書きで『悠太へ』と書かれているのを見て、その場で封を切らなければと思った。 『今日は歩いて帰りなさい。その方がいい。おばあちゃんは、預言書を読んだから間違いない』  別れの言葉や教訓めいた文言はなく、シンプルにそれだけが書かれていた。母親が「どういうこと?」と不思議そうに尋ねた。 「母さん、『アガスティアの葉』って知ってる?」  悠太は記憶を遡った。  小学生の頃、学校で「アガスティアの葉」という古代の予言書について話題になったことがあった。インドの予言書で、何千年も前に聖者アガスティアが書いたと伝えられているもの。この葉には、個人の未来や運命が記されているというものだ。 「ナディリーダーという人がそれを解読して、訪問者の人生に関する助言をするんだって」 「それが、手紙と関係あるの?」  母親は首をかしげた。 「小学生のときなんだけどね、田舎の蔵で、とても古い書物を見つけたんだ。昔の文字だったので、読めなかったけどね、その一部に俺の名前が書いてあるように見えたんだ。その話をおばあちゃんにしたら、驚いたような顔をしたんだ。お前のことが書いてあるって」 「おばあちゃん、確かに昔の文字が読めたけど、驚かせるために言っただけじゃないの?」  母親の指摘はもっともだ。しかし、当時の悠太はそれが、アガスティアの葉だと信じてしまった。 「おばあちゃん、色々と言い当てたんだよ。それが、楽しくてさ」 「悠太、あの頃、小学校になじめなくて不登校だったから、励まそうとしただけじゃないの?」  当時、悠太は学校でいじめにあっており、あまり学校に行かなかった。 「そうかもしれないね。でも、本当に助かったこともあるんだよ。おばあちゃんは、こう書いてあると言ったんだ。『お前は、法律を勉強して弁護士になる』って」  信じられなかったが、その言葉が心に残った。それから悠太は、少しずつ法律の勉強を始めた。そして法学部へと進み、学生のうちに弁護士資格を取得した。今は法律事務所に勤務。全て祖母の言った通りになったのだ。  悠太が説明し終えると、母親は微笑みながらこう言った。 「本当ならその古文書、すごい発見じゃない? 私のことも書かれているのかしら?」  悠太は「いや、違うんだ」と首を振った。 「おばあちゃんが入院してから、田舎に行って古文書を持ち出したんだ。大学の別の学部に専門家がいたので、見てもらった。そうしたら、ただの売買台帳だったんだよ」 「そうだったの。おばあちゃんらしいわね。ユーモアがあって、人を褒めるのが上手だったから」  母親は、自分の母を思い出し、少しだけ笑みを浮かべた。 「お葬式の手配は、父さんと母さんでやるから、悠太は一度家に帰りなさい。仕事、たまってるんでしょ」  悠太は実家を出て、独り暮らしをしていた。 「ここからだと、電車とバスで1時間くらい。歩いて帰るとなると、3時間はかかるな」  悠太は腕時計を見た。そして、祖母の手紙を読み返して、内容を再度確認した。 「でも、おばあちゃんの遺言だしな……歩いて帰るよ」  夜の街を歩きながら、悠太は祖母のことを思い返していた。  田舎の縁側で過ごした夏の夕暮れや、一緒にカブトムシを取りに行ったことなど――そんな日々が、どれほど貴重で、自分に影響を与えていたか。  歩くたびに、疎遠になった後悔や、悲しみが大きくなっていった。  自宅マンションにたどりつくと、深夜0時を過ぎていた。  悠太は何気なくテレビをつけた。 ――車両10台を巻き込んだ大規模な交通事故です。けが人が多数出ている模様で……。  都内で起こった事故のニュース。  その事故はちょうど、悠太が乗るはずだったバスのルートで発生していた。  もし、電車とバスで帰宅していたら……。  その瞬間、悠太は全てを理解した。  古文書は、アガスティアの葉ではなかったのだ。  本当に未来を見ていたのは……。  悠太はベランダに出た。遠くで、救急車や消防車のサイレンが夜空に鳴り響いていた。 (了)
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