専門家の見解

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専門家の見解

「初めまして、佐藤誠一と申します。今日はお忙しいところお時間を下さり、ありがとうございます」  第一印象は、会って数秒で決まるという。  結婚の許しも、同棲の許しも求めに来てはいない。しかし、先々そうする可能性は普通にある。よって、誠一は丁寧に準備してきた。毛髪から靴までの、無難な清潔感。ひげを剃り残しがちな首周りも、しっかりと確認した。ちなみに、背筋がスラッと伸びているのは、子どもの頃に猫背ぐせを叩き直された賜物だ。  さて、誠一は玄関先にて香織の母親と向き合い、リハーサルしてきたセリフを笑顔で述べて会釈までを無難に済ませた。  香織の父親は土壇場になって所用により終日不在となり、その日は母親のみとの顔合わせ。役員面接の前に設けられた人事面接に似るような、似ないようなそれは、ほぼ時間通りに始められた。 「お噂聞かされておりました~、香織の母です~。こちらこそ、今日は遠いところをわざわざありがとうございます。どうぞ、どうぞ上がって下さい」  返された笑顔は、少なくとも誠一には、素直な肯定的サインだと受け止められた。  隣にいた香織を見ると、彼女もうれしそうに、「さあ上がって上がって」と促す。 「失礼します」  誠一は注視が外されたことにほっとし、彼女の生まれ育ってきた空間を感慨深く眺めながら彼女らに続いた。  そして、同じくほっとしたのは、香織の母親やその空間が誠一にとって好ましい雰囲気なことだった。  香織から、「うちは普通のうちだよ」と聞かされていたが、「普通」は当てにならない言葉ではある。  友人や同僚から、ガールフレンドの両親に会って、付き合いを続けるかどうか悩んでしまった……というエピソードを聞いてもいた。特にガールフレンドの母親は、そのガールフレンドの未来の姿だとも言われる。気にする男は少なくなかろう。  しかし、「会ってから数秒で決まる」第一印象は、誠一の側からも肯定的サインを示すことができた。  依然と緊張していたが、既にだいぶラクになってもいた。  小ぎれいなリビング。窓から陽ざしが差し込んでいる。  改めて挨拶し、香織から親御さんの好みを聞き取ったとおりの手土産を渡した後、香織と打ち合わせたとおりのソファに座る。 「本当にいい日になって、よかったですね~」  香織の母親に合わせて、誠一も外を見やる。 「こちらに着いてすぐ、ウグイスの声を聞きました。湖がきれいで、また情緒が違いますね」 「諏訪は田舎だからねー」  お茶を運んで配った香織がそう笑って、腰かける。  誠一は苦笑いした。 「いや、田舎っていうのは、僕の実家みたいなところだよ」 「佐藤さんは、兵庫のご出身なんですよね?」  履歴書も身上書も持参していないが、話題は誠一のプロフィールに向かい始める。 「はい。でも神戸でなくて姫路で、それも実家は田んぼの真ん中みたいなところでして」  そうして出身をしばらく掘り下げて、それから誠一の経歴と勤め先へ。  東北の大学では流体力学を専攻してうんぬん、勤め先には東京の大型機械メーカーを選んでうんぬん……誠一は、専門家としてのプライドを持って、彼の専門領域について努めて平易に説明した。  湯飲みを握って、彼は言った。 「例えば、このお茶をかき回した時にお茶の葉が真ん中に集まりますよね。このしくみを数式で解き明かすのが、流体力学です」  そして、それが身近なところで役立てられていること――自動車、鉄道、船舶や航空機での活用。発電での活用。水道管やガス管での活用――をアピール。また、この興味深くもしち面倒くさい学術に取り組み続けてきた自身の粘り強さも、さりげなくアピールした。  香織の母親は、「私には難しいことは解らないけど」と何度か言いながら掘り下げてくれ、彼に一定の尊敬を抱いてくれたらしいのがその雰囲気からうかがわれた。  その後も、誠一のクラブ活動・部活動経験、趣味と掘り下げられた。香織が「あんまり根掘り䈎掘り聞かないでよ。ヒクよ」とたしなめる中、別に欠点や失敗をあげつらわれているわけではないので、誠一は「せっかくの機会ですので」と言って気持ちよく自分を開示した。陸上部で中距離を走って全中大会でうんぬん、落語や漫才が好きで香織さんとも演芸ホールに出かけてうんぬん……なお、マンガや動画鑑賞が好きなのはいちいち開示しなかったが、まあそれは香織が知ってくれているだけでいいだろう。  そうすると、人間に幅が出たというか、尊敬できそうなところから取っつきやすそうなところまで確かめられた感じになって、香織の母親も安心してくれたようだった。  それから、話は誠一と香織の付き合いのことになった。 「香織って、佐藤さんに迷惑かけてませんか?」 「う~ん、迷惑ですか……」  唐突な質問に、誠一は笑った。 「お母さん何言い出すの?」  香織が突っ込むと、香織の母親がたしなめた。 「あんた、怒ると佐藤さんを無視するとかしてるんじゃないの?」  誠一は、実はそのとおりです、と言ってもよかったがとりあえず見送った。 「いえ、特にそんなことは……」 「話がヘンなほうに流れてきてるし」  香織が責めると、香織の母親は続けた。 「この子は長女だからしっかりしてるように振る舞えるんですけど、素はだだっ子なんです」 「そんなの子どもの頃だよ」 「モノを投げたのは中学生の時でしょ」 「あの時は精神的にしんどかったって、お母さんも知ってるよね?」  誠一を置き去りにして、親子の小競り合いが始まってしまった。  とりあえず、誠一の知っている香織が誠一にモノを投げつけたことも、その気配も無いのだが……。 「佐藤さん、香織のことで何か困ったら、私に相談して下さいね」 「はあ……」  誠一は、とりあえず、ありがたくあいづちを打った。 「この子が何も言わなくなったら、アーモンドチョコレートか何か与えてやって下さい。そうすると、元気になってしゃべるので」 「それじゃあ私が子どもみたいじゃん」 「あんたは、私にとっていつまでも子どもだよ」  そう言って、香織の母親は誠一に向き直った。 「ただ、『お姉ちゃんだから』って言って厳しく育てたので、よかったら、多少は甘えさせてやって下さい」  これは、前から香織の家族構成を聞いていた誠一も気にかけていたことだった。だから、「そうさせていただきます」とすぐに答えた。 「お母さんは私のこと全て解ってるわけじゃないよ」  香織は、相変わらず母親につっかかっていった。 「そう、前にも集団社会化理論のこと話したよね? 親の力なんて良くも悪くも……」  教育学部出身の香織らしいその領域の学説をぶたれて、香織の母親は答えた。 「確かに、ふたりと違って私は何の専門家でもないけど……」 「いいんですよ、香織さんのお母さん」  誠一はさえぎるように言った。 「親の愛情みたいなものが伝わってきて、僕はうれしかったです」  結婚の許しも、同棲の許しも求めに来てはいない。ただ交際報告に来ただけなのに、何だか重めのセリフを言う流れになってしまった。ような気がする。  誠一はそう思ったが、それでも悪い気はしなかった。  香織の実家を訪問するのはもともと日帰りの予定だったので、香織の自室でも過ごしたりしながら、十四時頃にはふたりでおいとまとなった。 「今度は、ぜひ香織の父親にも会って下さい。これからも、娘をよろしくお願いします」  別れ際に、誠一は、香織の母親からそう言われた。  企業の面接では、にも関わらずいわゆるお祈りが届くこともあるようだが、さて……そう思いながら、誠一は、バックミラーの中で小さくなっていく立ち姿を見たのだった。        *  窓から朝日が差し込む。  書棚には、工学の技術書、洋書、実用書や落語選集等等が並んでいる。  また、「膵臓がんの最先端治療」のような本も、新しめのものが並んでいる。しかし、それらの本はもう手に取られなくなった。願わくは、もう用は無いであろう。  老爺は立ち上がって、その足元はまだ確かだった。背筋はスラッと伸びていて、それは子どもの頃に猫背ぐせを叩き直された賜物であり、健康管理の習慣の賜物だった。  老爺はその朝も、小さな仏壇の前に行く。  その朝も、声をかける。 「おはよう、香織。今日はね……今日はそろそろ、庭のキンモクセイが咲きそうだよ」  そしてその朝も、遺影の前にアーモンドチョコレートを供えた。 (了)
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