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第一章
町外れに佇むその家は頑丈なコンクリートの外壁で囲まれ、その高さは三メートルを超えている。周囲の竹林と柔らかい木漏れ日が作り出すコントラストが、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。
門というものは存在していない。侵入者を拒む外壁に指先だけを添えて歩けば、表面の暖かさの後に押し寄せてくる無機質な冷たさに少し心が早まる。これが期待なのか恐怖なのか、はっきりと整理の付かない思考を揺らしながら申し訳程度についていた片開きドアに視線を向けた。
今日からここが私の人生を変える『何か』になるかもしれない。
私の心とは正反対にドアは軽く鳴いてあっけなく開いた。
外からはうかがい知れない内側は、まるで時間に取り残されたかのようだった。庭には柔らかな竹の葉が風に揺れ、陽を浴びながら揺らめいている。その周りには少しずつ成長した若木が点在し、歩くたびにじゃりっとなる音で気分はまさに泥棒さながら。
そのまま導かれるように進むと中庭が繋がり、それを楽しむように白塗りのウッドデッキが広がっていた。木々のざわめきが心地よく耳に届き、心を安らげてくれる。竹の緑に包まれたこの場所は、外の世界とは隔絶された、特別な空間を提供してくれる。
ウッドデッキにうっとり・・・なんてつまらないことが浮かんだとき、籐で出来たソファやテーブルの中に人影が見えた。
黒髪が柔らかく光をうけてほのかに輝き、まるで夜の闇にひそむ猫のような神秘的な雰囲気を漂わせている。しなやかな動きでソファから上半身を起こした彼は、後頭部に寝ぐせのようなものがついてるが滲み出る気品から不潔感は一切感じられない。少し長めの前髪はセンターでラフにかきあげられ、隙間から覗く切れ長の二重は獲物を探すように辺りを伺っている。なだらかな鼻筋、ぽってりとした赤い唇。きめ細やかな白い肌の彼は、まだ青年のあどけなさを忘れきれない不完全さがとても綺麗だった。
「誰?」
思わず見とれてしまっていた。問いかけに対する言葉が音にならず、ちいさく唇が『んぱっ』と鳴いた。
しっかりと私を見据えた彼が静かに立ち上がり、長い足で距離をつめてくる。風で揺れる前髪を邪魔そうに目を細めて、赤い口角には隠しきれない愉快さが垣間見えていた。
「君は誰だい?どうやって入ってきたの?どこから・・・、いや。ここはだめだよ。さぁ、もと来た場所から戻って、全てを忘れて」
人の喜怒哀楽という感情をこんなに短時間で見たのは初めてかもしれない。まるで初めて人間を見たかのように切れ長の二重が瞳孔をパチクリさせたかと思いきや、しっかりと生えた眉をひそめて怪しむようにこちらを伺い、更にはジャングルに迷い込んだ子どもを逃げるよう諭しつつ猛獣の足音を警戒するように周りを見渡した。
「こんなことは初めてだよ。君は泥棒、というものかい?」
そう言いながら私の肩に手を置いて草むらに向かうように促し、若木の陰にしゃがむようにと導いた。知らない男女が物陰に肩を寄せて隠れるなんて、まるでアクション映画の一コマみたい。状況を呑み込めずに困惑する自分と、普通じゃないこの体験にわくわくする自分が混ざりあって複雑なので是非新しいアイスのフレーバーに採用して欲しい気持ちだ。ふざけている場合ではなく、今はこの男性の誤解を解くことが先決かもしれない。
「泥棒ではありません。ちゃんとこの紙で・・・えっと」
小脇に抱えていたリクルートバッグのポケットに手を差し込む、いやこっち側じゃない、えっと、あぁ10年前に就活の際に使ったきりの合皮の鞄のくせにまだまだ硬くてつかいづr
「静かに」
大きな手が私の頭に優しくのり、そして更に小さくなるようにと力を込めて添えられた。そういえば彼の距離感は他人へのそれとは大きくかけ離れている。触れ合う肩と少し顔を傾ければ彼の首筋の匂いを嗅ぐこともできてしまう。そう意識してしまえば、心臓から広がっていく久方ぶりの熱に生唾を呑み込んでしまう。
男性との触れ合いと遠ざかり過ぎて自分のことでいっぱいだったが、視線だけで隣を伺うと彼は建物の方をじっと見つめていた。その視線をなぞるようにウッドデッキのほうへ焦点を合わせたとき、綺麗なシャツに黒のスラックス姿の初老の男性が顔を覗かせる。
「理人さん」
あたりを見回しながら知らぬ名を呼ぶ男性が探している人物はおそらく・・・、そう感じたとき隣の空気が動く。
「ここだよ」
数メートル先に移動してから理人と呼ばれた彼が、初老の男性へと向かいながら軽く右手を挙げた。
「あぁそこにおりましたか」
男性は驚いた様子もなく理人さんへ笑顔を向けた。
「あまりにも天気がいいから、若葉に触れたくてさ。どうかしたの?」
「えぇ。今日は客人が参りますので、先にお伝えしておきたくて」
そう言って目元にしわを寄せた男性と相反して、理人さんは驚きを隠せない表情を返す。
「この家に客人?一体・・・何が?」
「理人さん。来る日の為に、戸惑っている時間などありません。今から準備をするようにとの連絡がありました」
「もう・・・忘れられていると思っていた」
二人が何を話しているのか全く理解できないし、盗み聞きをしている事実に罪悪感でいたたまれない。でも、気になる自分の心にはもう逆らえないのだ。
「そういえば時間が過ぎているようです。確か十三時のはず」
初老の男性が左手に巻き付いた時計に目をやり、『十三時』のワードに焦りがこみ上げる。そう私は今日、面接に来たのだ。
「もしかしてその客人って」
理人さんがこちらを奇怪そうに指さし、それに導かれるように初老の男性も私を見る。意図せず前のめりになってしまっていた私は、若木の陰よりも大きくはみ出してまぬけな泥棒のようだった。
「あ・・あぁの、えっと・・・面接に参りました、佐藤さくらです」
突然の注目に身体は動かせず、両膝を地につけたまま失礼のないようにと思ったのに声が震えてしまった。なんだか恥ずかしさと緊張で目の奥が熱くなる。そんな私を見つめる初老の男性はにこやかで、理人さんは何か疑問があるように首を傾げていた。
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