異世界へようこそ!

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 いつも通っている図書館で見つけたその本は、不思議と輝いているようにあたしの目に映った。  興味を引かれて手に取ってあらすじを読んでみると、どうやらファンタジーもののようだった。普通の村娘だった女の子が勇気を奮い立たせて、世界を苦しめる魔王を倒しに行く冒険譚だ。ただの少女が困難に立ち向かって、勇者となるべく成長して旅するお話。 「へぇ、女の子が勇者なんだ」  表紙イラストの美しさと豪華さ、そしてそのあらすじに興味が湧いて、読んでみようかな、と思った。主人公の十三歳という年齢にも共感を抱いた。ちょうどあたしと同じ歳だ。 (でも、初めて見るなあ、この本)  本が好きで小さい頃から図書館に通い詰めのあたしだったけれど、一度もこの本が棚に並んでいるのを見たことがない。表紙やページがずいぶんくたびれているので、もしかしたらすごく人気で色んな人が続けざまに借りていて、それで見たことがなかったのかもしれない。  これは掘り出し物かもしれない。とんでもなく面白い本かもしれないぞ、とわくわくしてきて、スキップするような気持ちでカウンターに持って行って貸出の手続きをした。すると司書のお姉さんがあら、という表情を見せた。 「この本を読むのね」  そしてあたしの姿をたしかめるように見ると、にこっ、と笑いかけてきた。 「どうか、楽しんで」  本を借りる時に声をかけられたのもはじめてだ。このお姉さんにとっても思い出の本だったりするのだろうか。 「はい!」  あたしは元気よく返事をして図書館を後にした。借りたばかりの本が鞄の中から心地よい重みを寄越してきて、あたしは嬉しくなって急いで家に帰った。     *  帰ってからさっそく読みはじめたその本は、壮大で力強くて、時に悲しくて悔しくてままならなかったりして、心を揺さぶる物語だった。森や渓谷、氷の国や炎の泉や妖精の村など。そんな不思議な世界を主人公や仲間たちは旅していく。  ただの女の子であるミナが大いなる敵に立ち向かうなんて、最初は本当にとんでもないことだった。剣も魔法も、はじめはまともに使えもしない。それでも懸命に努力して、逃げようとする心をどうにか叱咤して、ゆっくりと、けれど確実に進んでいくのだ。  あたしは宿題も夕飯もおろそかにしてただ本の世界に没頭した。物語の中では、主人公が敵の猛攻に遭い、精神的にも肉体的にもひどく打ちのめされているところだった。仲間も全滅。助けも期待できない状況だ。 (だけど、だいじょうぶだよ)  あたしはページをめくりながら心の中でそう応援する。  ここまで頑張ってきたあなただもの、だいじょうぶ。まだやれるよ。成長できる。 (だから、がんばれ――!)  その時だった。 『もう、やんなっちゃった』  本の中から、声がした。 「えっ――」  思いがけないことに驚き、あたしは硬直したように動きを止めた。  今、たしかに本から声がした。それに……。 (本の中の台詞も……)  直前まで敵に立ち向かっていたミナの台詞の『負けないっ』という台詞が、ぼやけて掠れて、あたしの目の前で消えてしまった。代わりに浮かびあがるのは今まさに聞いたばかりの『やんなっちゃった』の言葉。 「そ、そんなこと言わないでよ」  およそ起こりえない非現実的なできごとに動揺しながらも、あたしは本に向けて――物語の中のミナに向けてそう話しかけていた。  すると再び、本の中から声がする。 『愚痴を言って何が悪いの? もう体中あちこち痛くて仕方ないの! そっちは読んでいるだけだから楽でいいわよね』  これまで健気に努力してきたはずのミナの投げやりな台詞に、あたしは愕然とした。 「あなた、そんな子じゃなかったじゃない! 今までずっと、素直で良い子で一生懸命で、あたし、だからあなたのこと応援してたのに!」  涙ながらに訴えると、ページが勝手にぺらりとめくれて、見開きの挿絵が現れた。  そこにはモンスターを前にしていながらそちらに目を向けない――「こちら側」、あたしに睨むような視線を向けるミナのイラストがあった。その体からは苛立ちが立ち上っているようにさえ見える。 『そういう子じゃなきゃ、あんたたち、応援してくれないじゃない。好かれる子でないと、読んでもくれないじゃない』  吐き捨てるような台詞だった。  好かれるために良い子の振りをしていた――? 偽りの姿を見せていた――? 「そんなの、ひどい」  あたしはぐっと拳を握る。 「わくわくする物語とか魅力的なキャラクターとか、綺麗な魔法とか、そういうのを楽しむために読んでいたのに!」  こんなの、読者への裏切りだ。 『あんたが何を期待してるか、知らないわけじゃないわよ。これまでだって、『みんな』そうだったんだから。だけど実際はね、仲間だって仲違いばっかりだし、気が合わない奴だっている。それでも『あんたたち』に向けて頑張ってる。精一杯いいとこだけ見せようと頑張った』  不意に物語の中のモンスター、ドラゴンが尾を振って主人公のミナをいとも軽く吹っ飛ばした。ミナは血をまき散らせながら死んだような目をして叫んだ。 『だけどそんなの、もう疲れたの!!』  血反吐を吐いて痛みにのたうち回り、『もう嫌だもう嫌だもう嫌だ!』と繰り返した。 『こんな痛いの、もう嫌だ!』  あたしはぼろぼろと涙をこぼした。 「……あたし、憧れてたのに」  魔王に世界を侵されながらも、心だけは守ろうと懸命に生きる本の中の人々。あたしのいる現実とは違う、魔法と宝石などに彩られた美しい世界。必死に足掻き、努力する清廉なキャラクターたち。  この中に入れたら良いのに。ここであたしも冒険できたらいいのに。自分を磨いて、鍛えて、救いを与える人間になりたい。そんな風に思っていた。 「あたしもあなたたちみたいに生きてみたいって、思っていたのに……!」  あたしの呟きを聞いて、ミナが血にまみれた口角を上げた。『……聞いたわよ?』と不気味に笑った。 『それならあんたのその願い、叶えてあげる』  突然本があたしの手から離れて浮かび上がったかと思うと、猛烈な勢いでページが次々とめくられていった。あたしが読んでいた時よりもページ数がどんどんと増し、めくれるごとにバラバラバラ、と大きな音を立てる。  足元が揺らぐ感覚。地面どころか空気も時間もばらばらに崩れていくような感覚に、意識が遠くなる。  そして次に目が覚めたとき――。  あたしは、世界を魔王から救うべく生まれた『ミナ』になって、血だらけになって地面に転がっていた。     * 「ーーもうそこから出ることはできないわ、可哀そうに」  ようこそ、異世界へ。呪いの本の中へ。  くすくすと笑いながら、『あたし』は本のページを無造作にめくった。物語に取り込まれさえしなければ、この中に捕らわれるようなことにはならない。  さっきまで物語の世界にいた『ミナ』――あたしは、あらたな主人公を本の中に捕らえることによってようやく解放された。やっと上手くいった、と涙が出てきそうだった。  これでもう、戦って痛い思いをすることも森の中で恐怖の中眠るようなこともない。何より、読者が望む「良い子」として生きなくても構わない、という解放感に、あたしの心はしびれるほどの幸せを感じていた。 (読んでくれる人がいないと、引きこむこともできないものね)  ギリギリまで引き付けて、本の中に引きずり込まなくちゃいけない。そうでないと、永遠に物語の世界から逃げることはできない。  そういうことになっている、というのを、かつてこの中に引きずり込まれて初めて知って時は絶望したものだ。 「きっと今頃、あなたも苦しんでるんでしょうねぇ」  意地の悪い笑みが零れる。  物語の中とは言え、そこで生きるのであればそれは「現実」でしかない。モンスターと対峙する恐怖に足は震え、骨が見えるほどの怪我もする。夜の闇は心を苛み、仲間への疑心も募る。食料だってまともに手に入りはしない。閉鎖的な村に行けば閉め出され、疎まれ石を投げられもする。  報われる瞬間など無いに等しい。ほんの少しの「良い瞬間」が本に書かれているだけ。  実際には辛いばかりの道行きで、心は折られてばかりだ。地獄のようだった。  だけどその絶望も苦しみも、主人公は物語の表に出してはいけない。でないと「物語」が魅力を失って、人々に本を手に取ってもらえる機会さえ失ってしまう。これはそういう本だから。煌めく美しい想いに溢れていないと、人々の目に止まらない本。手に取ってもらえない本。  あたしはかつてあたしをこの中に閉じ込めた少女の顔を思い出す。決して忘れることのできない、憎い顔だ。『この子』の記憶を探ってみると、その顔と一致する人物が浮かびあがってきた。何て偶然。こんなことが起きるのか。  あたしは昏い愉悦を感じて、また笑う。 「本を返しに行かなくちゃね」  今はまだ、ただボロボロなだけの本を手に取る。 (血を浴びせてあげる)  血まみれの本はきっと、子どもに嫌がられることだろう。そもそも、そんな本はもう図書館に置かれることもないかもしれない。そのせいでこの本が処分されるようなことになったって、別に構いやしない。あの子が物語の世界に閉じ込められたまま帰ってこられなくなったとしても、あたしは痛くもかゆくもないのだから。  机の引き出しからカッターを見つけ出し、刃をめいっぱいまで出して指に当てる。切れ味は良いようだ。  薄い刃は肉を裂くには足りないけれど、太い血管にしっかりと狙いを定めて誤ることさえなければ致命傷を与えることはできるはず。これまであの本の中でさんざん戦ってきたのだ。生き物を殺すための要領は得ている。武器はお守りのようなものだった。  あたしを犠牲に外の世界に脱出したあの女は、どうやら大人になったらしい。今さら何者かに脅かされるようなことなどないと、のんきにのうのうと生きていることだろう。  さぁ、行かなくちゃ。  あたしは本を返すために、そしてあの司書のお姉さんの首に刃を突き立てるために、本を携えて家を出た。
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