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お姉さんの涙
二子玉川を超えて多摩川が見えると小人の関心は窓の外に移る。お姉さんも小さなバッグから小説を取り出して読み始めた。
それは私にとって忘れられない一冊になる。タイトルも作者もわからないその本は、その後の私の人生に多大な影響を与えることになる。
私は彼女が読んでいる本のタイトルを見たがまるで何の本であるかわからなかった。
当時の私にとって本とは夏休みに無理やりに読まされて感想文を書かされる厄介なものでしかなく、本を読んで楽しい、感動したという体験をしたことがなかった。
私が好きだったのは図鑑や百科事典であって、知らないことを見聞きすることには大いに関心があったが、小説中の登場人物に感情移入した記憶はなかった。
しかし唯一、突き刺さったのがエドガー・アラン・ポアの『モルグ街の殺人』だった。
そこに描かれている素人探偵C・オーギュスト・デュパンなる創作上の人物がのちに名探偵の始祖となったのだと知るのは、ずっとずっと後のことである。
彼女が本を読み始めて10分を過ぎたころ、駅で言えば溝の口から鷺沼あたりを走っていたときに、彼女の様子に変化が現れた。
麦わら帽子で目元は見えないが、彼女は鼻をすすりながら時々バッグから取り出したハンカチを頬から目に当てて涙を拭いているのである。
小説を読んで感動し、或いは悲しくて涙を流す。
それはまったく想像ができない出来事であり、事象だった。それも人前で、電車の中でである。
いったいどんな本を読んでいるのか、誰が書いた本なのか、どんなストーリーでどんな登場人物の行動がこの現象を起こしているのだろう。
読書が苦手で小説に関する知識が乏しい中学生には、タイトルのことや作家の情報はまるで未知のものであり、記憶に残こそうにもお姉さんが泣いているという状況があまりに衝撃的過ぎて脳内の処理が追い付かなかったのだと思う。
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