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大学の講義が終わり、足早に図書館へと向かった。講義はいつも出入口の近くに陣取り、誰よりも早く退室する。辿り着いた目的の本があるはずの棚。タイトルを何度も唱えながら指でなぞるように本の背を横切り、ようやく手にしようとした時、同じように手に取ろうとした指とぶつかった。
「うわ」
本棚で目的の本が同じで、指が触れ合うなんてベタな恋愛物語の運命的な始まりのようなのに。私から漏れた声は可愛らしさの微塵もない嫌悪感の溢れる声だった。
「俺が先!」
「違います!」
いがみ合う相手に嫌悪感丸出しの顔をするけれど、実は私はこの男性の名前を知らない。同じ学部のおそらく同じ学年だから、講義が被ることが多くて顔だけは覚えてしまった。そしていがみ合うようになったのは、同じ本を求めることが多いからだった。
「はぁ?……あ、ってかもう1冊あるじゃん。ほら」
二冊以上図書館に蔵書があるということは、需要があるということだ。どうして需要があるかと言えば、それが大学の講義の課題で使われることが多い本だからだ。どうして私たちの指がぶつかることが多いかと言えば、課題が出た講義の後に真っ先にこうして図書館にやってくるのが私たちだけだからだった。
周囲の大学生はもはや課題もインターネットの情報だけで済ましているようだった。課題の為に使う本こそ、買わずに図書館で済ませたいと思いながら通っていたけれど、競合他者が今までいなかったからいつも一番に貸出することができた。しかし大学生活も二年目に突入した頃に、突然の競合相手が現われた。それがこの名の知らぬ男性だったのだ。
『――あっ』
いつも一番に目的の本を借りることができたから、余裕を持って行った図書館で、目的が同じだと理解している男性がしたり顔で共通の目的の本を持ち、図書館のカウンターに向かうために私の横を抜けて行った。一年生の頃から講義で見かけたことがある。きっと同じ学部のやつだ。カウンターまで行かなくとも、すぐ横にあるこの機械で貸出はすぐに済むというのに。そんなことも知らぬヤツに先を越されてしまった。それが私にとって屈辱的で――。
「あ、どうも……ってこっちの方がボロボロなんだけど。替えてよ」
「あぁ?めんどくさっ!」
「先に取った方が綺麗な方を使う権利があると思うのだけれど」
「だから俺が先だってば!」
それからというものの、こうして課題に使う本を巡り、いがみ合う仲になった。毎度私の先を行き、目的の本を借りようとする。私はコイツを邪悪な天川〇司だと思っていた。あの映画の主人公の女の子は借りた本をいつも先に借りている男の子のことが気になっていくけれど、コイツは私にとって運命の欠片も感じない本当にただの嫌な奴嫌な奴嫌な奴!だった。
「――はい、俺の勝ち~」
私よりもずっと背が高いコイツは私よりもずっと歩幅も大きい。いくら出入口の近くで講義を受けていても、図書館に辿り着くスピードはコイツの方が速い。
「……そこで貸出できるよ」
「おん?」
一冊しかなかった目的の本を、勝ち誇った顔をして私の横を通り過ぎようとしたコイツに声をかけた。今は卒論が佳境に迫っている時期でカウンターは混雑している。去年から図書館に通っている私が知っていること。大抵の学生が卒論を意識した頃から通うから、この静かに置いてあるセルフ貸出が出来る機械の存在を知らないのだ。
「へぇ、どうやんの?」
「ここ、本のっけて」
初めてまともな会話をした。敵に塩を送るようで嫌だけれど、素直に言うことを聞いてくれてちょっとだけ心が穏やかになっていた。
「おぉ、簡単じゃ~ん。ありがと」
「ん、じゃあこれで」
「ねぇ……一緒にやればよくない?」
「え?」
さっさと帰ろうとしたところで逆に声をかけられた。まさかのお誘いに固まってしまう。だってキミは私の邪悪な敵ではないか。
「どうせ同じ課題なんだからさ、どう?」
「……あなたが良ければ」
「よし、じゃあ移動しよ~」
これは成り行きというやつだから仕方がない。だってどうせ同じ課題なのだから。私よりもずっと大きな背中について行く。私よりもずっと大きな歩幅だけれど、今は歩くペースも同じだった。
「あ、そうだ。俺、川田(かわだ)ね」
「……広尾(ひろお)です」
大学構内のフリースペースで私はノートパソコンを立ち上げ、川田くんはスマホを操作しているだけだった。
「え、スマホで課題済ませてるの?」
「うん。普通にフリックの方が速いし」
わざわざ図書館で本を借りたり、ノートパソコンを使ったり。私って古いタイプの人間なのかな。でも家で父親から愚痴を聞いてしまったから。「新卒の子がパソコン全然使えない」って。そんなことを聞いてしまったら、将来の上司が自分の子供に同じように愚痴っていたら嫌だと思ってしまったから。だからこうして今からしっかりとパソコンに慣れようとしているのだった。
長机に並んで座り一冊の本を一緒に見る。いつぶりだろう。こうして一緒に並んで本を見るのは高校時代に隣の席の子が教科書を忘れた時ぶりかもしれない。懐かしさを感じながら川田くんと課題を進める。
「――ふぅ。まぁ7割くらい終わったかなぁ~」
気付けば数時間が経っていた。辺りは少し暗くなってきている。川田くんは大きく体を伸ばして首を回している。私もずっと座ったままで体が固まっていた。
「今日はここまでにして、また集まろうぜ」
ん、って言いながら川田くんはスマホをこちらに向けている。私が意図が分からず困惑していると川田くんは呆れたように言い放つ。
「連絡先!」
「あ、あぁ」
「……別に、嫌ならいいけど」
「え?あ、そんなことないよ!」
慌てて長机に放置したままだったスマホを掴み、連絡先を交換した。あれだけ敵対意識を持っていたはずなのに、すっかり懐柔されてしまったことに何故だか嫌な気がしなかった。一緒に課題を進める間、私が見やすいように本を傾けてくれていたり、講義の愚痴を面白おかしく話したりしてくれたから仕方がない。
「え?」
「うん?どした?」
「……名前、“せいじ”なの?」
スマホに映った川田くんの連絡先であるアカウントの名前が「誠治」だった。漢字は違うけれど、私にとってあまりにも出来過ぎた偶然に思わず笑ってしまった。
「うん。何?何で笑ってんの?」
「ごめんなさい。なんかそうだったら面白いなって思ってたから」
「何それ?」
不思議そうにしている川田くんに詳しく教えられるわけもなく、適当にその場はごまかした。その後、私たちは連絡を取り合い再び一緒に課題を進め、無事に協力して課題を終わらせたのだった。
「――ほい、また俺の勝ちぃ!」
一緒に課題を終えた数週間後。再び課題に最適な本の取り合いが始まり、すぐに終わりを迎えた。目的の本を私の目の前で手に入れ、多少仲良くなっても憎たらしいほどに勝ち誇った顔をする川田くん。あれ、でも本棚を見たら。
「もう一冊あるじゃない」
読めれば劣化が激しい方でも良いや。そう思いながら伸ばした指は、目的の本へと届くことはなかった。
「え?」
私の指は川田くんの手によって包まれてしまった。私よりずっと、大きな手。
「……一緒にやればよくない?」
私は彼の言動に戸惑ってしまった。先ほどまであれだけ勝ち誇った憎たらしい顔をしていたというのに、今はもう自信の欠片もない不安そうな顔をしている。
「……嫌?」
「えっと……嫌じゃない。たぶん」
「たぶんて何」
断るのは気が引けて、でも今まで散々敵対視していたから素直になれなくて。可愛げのない返事をしてしまう。川田くんは私の答えに笑っていて、その笑顔を見て安心してしまった自分に内心驚いていた。
「良いってこと?じゃ、移動しますかぁ」
慣れたように機械を使い、セルフで貸出を終えて私の前を進んで行く。私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれるその横を私は並んで歩いた。
「――んあーっ!今日は終わりまでいけたな!」
「うん……」
再び同じ場所で同じように一緒に課題をこなした。今回はお互い課題が終わってしまい、もう一度集まる必要がなかった。それを内心残念がっている自分に気付いて、私は再び自分の気持ちに驚いていた。
「なぁ腹減ってね?このままメシ行かない?」
川田くんからのお誘いを嬉しいと思ってしまい、さっきからずっと驚きが止まらない。きっとこれは不良が猫を拾ったとか、そういうヤツだ。最初の印象が悪かったから、余計に一緒に穏やかに過ごした時間が魅力的に感じているのだ……たぶん。いや、でも――。
「……うん」
「んー……あのさ、別に無理強いしたいわけじゃないから。嫌だったら断っても大丈夫だよ?」
川田くんは自身の気持ちに戸惑っていた私の様子を、嫌々付き合ってくれていると勘違いしたようだ。私は慌てて否定した。否定したいと思って否定してしまった。もうダメだ。私はもう、この人のことが気になって仕方がない。その気持ちを否定できない。
「嫌じゃないよ」
「……たぶん?」
「ううん、たぶんじゃない……嬉しい」
「そっか」
笑顔で席を立つ川田くんに倣うように私も席を立つ。もしも同じ本を求め触れ合った指先を、ただの偶然ではなく運命だと信じていいのなら――
私は彼との物語が続いていくことを期待してもいいのだろうか。
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