ピトレスク

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 ガタン。  車体が一際大きく揺れた音で目が覚めた。  向かい側の真っ黒な窓に、膝の上に鞄を乗せたままぼんやりと座る自分の姿が映っている。それを数秒眺めた後、やっと帰宅途中の電車の中であると思い至った。  どれくらい眠ってしまっていたのか、周囲を見渡しても乗客は自分以外残っていない。  目的地近くになると人が極端に少なくなるのはいつものことなのだが、少し冷たい色をした人工光の中にいると妙に不安を煽られるもので、ついきょろきょろと視線を彷徨わせてしまう。やはり誰もいなかったが、誰かに置いて行かれたペットボトルが座席の上に転がっているのを見つけた。  と、そうこうしているうちにトンネルを抜ける。窓の外はもう日が落ちかけていて、元々天気が良くなかったのも相まって薄暗い。  さて、と反射で少し見づらいガラスを睨みつける。自分の影の中を通り過ぎて行く黒っぽい木々の隙間に、それよりも暗く濁った水の色を認めた瞬間、ひやりとした焦りを覚えた。  見たことのある色の、知らない景色だ。  この電車は今、高所から海を見下ろせる道を走っている。私の乗車した駅から目的の駅までの間に海が見える場所はなかったはずなのに。  一先ずここがどこなのかをはっきりさせなければいけない。次の駅に着くのをしばらく待ってみたが、再び木々の間隔が狭まって周囲が見えなくなった。これは早々に到着することはなさそうだと少し苛立つ。  仕方なく鞄にしまい込んでいたスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いて現在地を確認する。少しずつ移動する青い丸は、自宅の最寄り駅の二つ先と三つ先の駅のちょうど真ん中あたりでぼんやり光っていた。  三駅程度でまだよかったとほっとしたが、この時間に自宅側に戻る電車はあっただろうか。間が悪ければ一時間以上待つ羽目になるかもしれない。  ちょうど落ち着かない車内にいて時間もあることだし、と電車のマークのアプリを開き、初めての駅名を入力してオレンジのボタンを押下する。そうして出てきたのは、今から約四十分後に発車する予定の鈍行列車の情報だった。  ふ、とため息を吐き顔を上げる。  眼前の窓からの景色は再び開けて周囲が見えるようになっていて、やはりくすんだ色の大きな水溜りが広がっていた。  ああ見慣れた景色だな、なんて、ほとんど初めての場所であるのにそんなことを思った。  記憶もない頃からずっと、海辺の町に住んでいた。  町内にある唯一の駅の前には海だけがあって、いつも緑と黒と茶を混ぜたような色をして、ゆらゆらと静かに揺れている。  一般的な綺麗な海とは言えないかもしれないが、私にとっての海はただそこにあるものでしかなく、それが綺麗でないことを問題だなどとは一切思わなかった。  言い換えれば、特に何とも思っていなかった。  そんな環境で育った小学生時代の夏休みに、海の絵を描くという宿題が出たことがある。  海に関係する何かでさえあれば何を描いてもいい、小学生には酷なようにも思える、しかしよくある曖昧な宿題だった。  夏休み明けの教室は、大部分を水彩の青で塗り潰された長方形の紙でいっぱいになった。そこに描かれていたのは想像上の鮮やかな海ばかりで、かくいう私も、目の前にあったはずの本物を描いてはいなかった。  何の意図も意識もなく、身近なそれを無視して、どこかで見たような理想を目に見える形に置き換える。それには言いようのない気持ちの悪さがあったと、今となっては少し思う。  とは言え、現在の自分に海を描けと言われても、結局あの海を描く気は全くしないのだけれど。  キィ、と擦れるような音がして、薄曇りの中をひたすらに走り続けていた列車が緩やかに速度を落とす。そのままほとんど吹きさらしのような状態の駅に停まり、気の抜ける音を立てて扉が開いた。  鞄を前に抱えたまま立ち上がり外を覗く。扉とホームの間に微妙な隙間ができているのが目に留まって、一瞬だけ覗いてみようとしたが、車体の影になって何も見えはしなかった。  ホームに降り立つと、目の前には曇り空を映した海が広がっていた。湿気を含んだ温い風に、少し磯臭いような匂いが混じっている。  ふと思い立ち、左手に握っていたスマートフォンのカメラアプリを開く。この端末を使い始めたときから入っているデフォルトのカメラアプリは、滅多に使わないせいか起動するのに少し時間がかかった。  再びシューと音を立てながら閉まる扉を背に、スマートフォンを顔の前で横向きに構える。  カシャリ。思ったよりも小さな音がした。  駅を出て行った電車が起こした風に髪を煽られ、シャッターを切った瞬間の手元がよく見えなかった。  画面の右下あたりに小さく見えるそれをタップすると、一瞬ブラックアウトした画面に自分の影が揺れて、つい今しがた撮ったばかりの写真がぱっと映し出される。  そこには、目の前にあるそれよりも少し青が強い、美しい偽物が写っていた。 終
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