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1 不遜な留学生
はじまりの日、ガラスのような瑠璃色の花がテーブルの上で咲いていた。
その花みたいに綺麗な青年に見惚れた自分を叱るつもりで、藍子はわざと彼から目を逸らして座っていた。
教壇の上で、彼の隣に立つ教授が藍子たち大学生に告げる。
「紹介します。今日から三か月間一緒に学ぶ、エドアルド・シーザム君です」
その日、藍子たちのクラスにやって来た留学生は、印象的なまなざしをした青年だった。
エドアルドははちみつ色の肌に黒髪、瑠璃色の瞳をしていて、そしてその瞳が不遜な色をたたえていた。自分に見惚れる女性が絶えないのを知っていて、それを楽しむ風が見えていた。
彼の姓、シーザムは、彼の母国の領地名だ。彼は大公の甥という貴族の血筋だと聞いていて、その生い立ちがますます彼を高慢にしたのかもしれなかった。
一方で藍子は農業技術者を目指して、奨学金をもらいながら今の大学で学んでいた。遊学中の海外の貴族と交流するほど生活費に余裕もない。
このときの藍子は、エドアルドとはほんの三か月机を並べるだけで、これから長い付き合いになるとは考えもしなかった。
教授は席を見回して言う。
「シーザム君の席は……あ」
でも藍子だけ目を逸らしていたのがかえって目立ったのか、エドアルドはつかつかと藍子の所にやって来た。それで、テーブルの上の瑠璃色の花のような目で藍子を見下ろした。
エドアルドはその容貌に似合う、ベルベットのような声色で言う。
「エドアルドだ、よろしく。名前を聞いていいかな?」
藍子は差し伸べられた手を一応取って、不愛想に答える。
「藍子よ。ようこそ……と言いたいけど、今は授業中なの。話はここまで」
藍子はそれだけ言ってエドアルドの手を離すと、彼に前を示した。
エドアルドはそれほど冷ややかに扱われたことがなかったのか、驚いた様子で藍子を見下ろした気配がした。藍子がもう一度目で前を向くように促すと、彼はすとんと席に腰を下ろす。
何だ、案外素直じゃない。藍子はちょっとだけエドアルドを可愛いと思ったものの、それから始まった授業は緊張の連続だった。
その日は化学の授業で、隣のエドアルドと一緒に顕微鏡を使ったり、溶液を作ったりする作業があった。
……その二人の作業のとき、エドアルドとの距離が近いのだ。
藍子は顕微鏡を覗き込みながら、側に意識ばかり向いてしまう。彼の母国では普通の距離なのかもしれないが、異性と付き合ったこともない藍子にはどぎまぎする。
エドアルドはそんな藍子の緊張に気づいたのか、面白げに言う。
「アイコ。そんなに力を入れてみつめなくても、植物は襲ってきたりしないよ?」
悪かったわねと藍子は心の中で悪態をついた。きっと彼はその容姿から女性にみつめられるのは慣れているのだろうけれど、自分はそうじゃないのだ。
藍子がエドアルドを横目でにらむと、彼はくすっと笑って肩を竦めた。
彼にとっての藍子の初印象は、良かったとは思えない。
藍子は男性のようにタイを締めて、全身を冷たい色で包んでいた。よく言えばスリムだが、悪く言えば貧弱な体つきだ。ほとんど笑わなくて、堅物の雰囲気がにじみ出る。
藍子はぷいとエドアルドから顔を背けて、またテーブルの上の花を見ていた。
光る瑠璃色の花は昼下がりのテーブルで、異国から来た王子様みたいに輝いて見えた。
「その花、気に入った?」
藍子が思わず振り向いたのは、彼がもう一度声をかけてくるとは思わなかったからだ。
彼が言葉を止めたのは待っているようにも思えた。藍子は息をついて、珍しく素直に告げる。
「そうね。綺麗だと思う。見惚れたの」
「僕の国と同じ名前、「レイリス」だよ。土産代わりに持参したんだが」
藍子が振り向くと、エドアルドはじっと藍子を見返して言った。
「君を射止めたなら、持ってきて正解だったな。……君は、興味深い女性だ」
一瞬彼の声が低くなって、藍子はその響きに息を詰めた。
外国から来た人だから、こういう物言いをしただけ。藍子はすぐにそう思い直して、冗談っぽく笑う。
「私は持ち帰れないわよ。仕事するためにこの大学に入ったんだから」
エドアルドも笑ったが、彼は少し言葉を考えたようだった。
湿気た実習室、空さえも見えない室内で、彼と未来を描けたはずもない。
けれどエドアルドは相変わらず不遜な調子で問いかけた。
「仕事があればいいんだな?」
藍子がその意図するところを理解できずにいると、エドアルドは瑠璃色の瞳でじっと藍子をみつめて告げた。
「では用意しておくよ。君に、仕事をね」
彼はたぶん、少し悪い人なのだろう。でも一度みつめたなら、目を離すことができない。
エドアルド・シーザムと出会った日、藍子は少し怖くて胸がざわめく、新しい世界に立ち入った気がしていた。
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