2 誘惑

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2 誘惑

 エドアルドと共に学んだ三か月間は、藍子には目を開かされるような日々だった。  彼は出会ったときから日本語を流暢に話していたが、語学に留まらず化学、医学、農学にも長けていて、彼の高慢さはそういった能力の高さから来ていたのだと知った。  聞けば彼は母国に戻ったら、二十歳そこそこで王立農業研究所の所長に就任することが決まっているらしく、諸国を遊学する合間にはトップセールスもしていた。  ただ藍子にとって気に入らない横柄な留学生だったかというと、それだけではなかった。  彼は授業の合間を縫って、よく藍子と温室を散歩していた。彼はその中で、彼なりの憂いを話してくれた。 「レイリス公国は厳しい気候で国土も狭い。元々、細々と農業で生計を立てていた国だったんだ」 「そうなの?」  藍子は彼の言葉に、藍子の知っているレイリス公国とは違うと思った。 「多国籍企業の誘致に成功して、東欧の先駆者と呼ばれている国なのに」 「確かに昔に比べればずいぶん国民の生活水準は上がった。でも近隣諸国の政情不安もあって、まだまだ舵取りが難しい時期だ」  エドアルドは温室の植物を仰ぎながらつぶやく。 「時代遅れと言われようと、僕らの生命線はやはり農業みたいなんだ。幸い先人たちが冷蔵技術を確立してくれたし、レイリス産というネームブランドも出来た」  彼はふいに目を細めて憂いを口にした。 「……あとは、輸出手段さえ確保できれば」  エドアルドは泥の中から伸びる茎をすくいあげて言った。 「陸路も空路も近隣諸国の妨害が多い。黒海経由の海路は悲願だ」  エドアルドは首の後ろで黒髪を結びなおして、冷たい笑みを浮かべる。 「どうだい? 才媛の君に、ぜひ手伝ってほしいんだが」 「私が?」  藍子が問い返すと、エドアルドはうなずいて言う。 「我が国の生命線である農業の研究者であり理知に富んだ女性。……公子妃にぴったりだと思うんだが」 「冗談はやめて」  藍子は跳ねた心を悟られないように、早口に返す。 「私は外国人よ。家柄もない。あなたのように熱心に国のための打開策を探しているわけでもない」 「僕の国と日本は付き合いが長い。喜んで受け入れられるだろう」 「私はあなたを愛しているわけでもないわ」  ふいに藍子がぴしゃりと告げると、エドアルドは苦笑して息をつく。 「君は僕を警戒しているね。一緒に過ごした時間が短いから?」  それは藍子の本心でもあった。異国から来た美しい留学生は、薔薇のように危険な棘を持っているように思えた。  エドアルドは立ち止まって藍子に言う。 「だったらなおさら、レイリスに来ないか。僕のことをよく知って、生活を共にするか、何もかも君が決めるといい。君に振り回されるのは、望むところだ」  エドアルドは宝石じみたミステリアスな瞳を細める。藍子はそれに飲まれないように硬い調子で返す。 「私はまだ就職活動もしていない時期なの。あなただって遊学中に過ぎない。未来を誓い合う時じゃないわ」 「君の冷静さが少し憎らしいよ」  エドアルドは肩をすくめて、言葉を続ける。 「でも君は甘くもあるかな。……もしこれから僕と君が長い付き合いになったなら、僕は君のその甘さに付け込んで、君を奪ってしまおう」  藍子は一瞬、彼と長い付き合いになる時を想像してしまった。  ひととき黙ってしまった藍子に、エドアルドは黙って彼女をみつめた。  彼は後ろ手に温室の扉を閉める。外の音が遠ざかって空気の流れが止まる。 「エドアルド?」  さんさんと天窓から降り注ぐ光の中、エドアルドは扉に背を預けながら鍵をもてあそんでいた。 「時々本気で、君をここに閉じ込めてしまおうかなと思う」  空気の流れが止まると、甘い花の香りがむせるように広がる。  冗談だとわかっている。けれど藍子は波紋が広がる内心を押し殺して、にらむようにエドアルドを見返した。  エドアルドはくすっと笑って、藍子を覗き込んだ。 「もう僕は君に出会ってしまった。僕を見くびらない方がいいよ」  瑠璃色の瞳に濡れたような熱が宿るのを見て、藍子は気圧されそうになる自分を叱った。  エドアルドから一歩離れて、藍子は息を詰めた。  ぞくっとしたものが背を走っていく。怯えだけではないそれに気づいたのか、エドアルドは今度はゆったりと笑った。 「覚えておいで。いつか、あなたを愛していると君に言わせてみせるよ」  エドアルドは藍子から離れて、片手で温室の扉を開く。一瞬温室の中に満ちた甘い香りは外に逃れて、張り詰めたような緊張も散っていく。  エドアルドは独り言のようにつぶやく。 「……そのときが楽しみだな」  頬に熱を帯びた視線を感じながら、藍子はエドアルドの横をすり抜けた。
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