ある天使への鎮魂歌

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「天使(あまつか)さん!」  私の名前が呼ばれている。  その声は、まるで私という存在をこの世界に呼び戻すような、不思議な響きを持っていた。 「はい。なんでしょうか?」  私は、他人行儀な返事をしながら、声の方を見ようとした。  しかし、私が振り返る前。  肩口にバンっ!、という強い衝撃が加わった。  肩を組まれて背後に押されてしまったのだ。  あわてて脚を踏んばって振り向く。  いたずっこのような表情を浮かべた顔の彼女と目があった。  どうやらコイツの仕業だったようだ。  そのいけすかない相手をギロリとにらみつけ、たっぷりドきついにらみをくれてやった。  『作り笑い』の彼女は、じっと私を見てくるだけだった。 「おはよう。」  私は一切の感情を排除した声で言う。 「おはよう、天使さん。」  表面だけの気の抜けた声を返してきた。  彼女は、何事もなかったようだ。  私の肩への衝撃には言及してこないし、こちらから尋ねても何の意味もないだろう。  私の日常スキル『扱いづらさ』は、コイツには効果がない。  だから、私はこれから最終奥義を解除することにした。  手にしていた数学の教科書で、彼女の頭部を引っ叩いた。  スパーン!  心地よい音が教室中に響き渡った。  教科書は紙とはいえ、それなりの厚みがあるのだ。  その音に、教室中がしーんとなったのは、一瞬だけだった。  クラス全員からどっと笑いが起きた。 「今回もナイス突っ込み。」  心無いヤジが飛んだ。  別に本気で叩いたわけではない。  ぞんざいに扱っただけである。  もし私が本気で殴ったり蹴ったりしていたら、こんな風に笑えないだろう。  教科書だったから、笑いながら悲鳴を上げて冗談で済むのだ。  しかし、叩かれた当の本人は相変わらずな態度で、いけ好かなかった。  ただ、教科書で頭を叩かれたことを理解すると、にぱぁっと笑った。  私とそいつとの非日常が幕を開けて、結構な時間が経過していた。  そいつが絡んでくるまで、私の学園生活は平穏そのものだった。  しかし、この目の前にいるそいつが、その全てを根こそぎ破壊していった。    さっきのようなあいさつは日常茶飯事だ。  しかも、毎日のように、このようなことを繰り返していると、あいつと私は周囲から友人だと誤解され始めていた。  私はただ一人で平和に過ごしたいだけなのに…。    ドツボに嵌っている。  それを認識した私は、ため息をついた。  授業中。  私の席の隣で、彼女はニヤニヤ笑っている。  なんて行動不能な表情変化。  それを見ていると、私は無性に攻撃を仕掛けたくなった。  その代わりに舌打ちでも一つしておけばよいのかもしれないが、今は授業中だ。  何しろ、私がこれまで積み上げてきたお淑やかなイメージへのダメージは計り知れない。  いや、もっともここまでくれば、私のイメージも何もないのかもしれないが。  しかし、これは私の矜持だ。  舌打ちは出来ない。  彼女を大人の態度で受け流すことが出来ない私にも問題があることは自覚している。  でも、私は私だ。  私の人格は私だけのもので、それを他人にどうこうされたくはないのだ。  そんな私の気持ちなど、彼女が理解してくれるはずもない。  だから私は、彼女のことが嫌いなのだ。  私は、その名前をとおりの天使(てんし)ではない。  ただの人間だ。  それに、苗字も天使(あまつか)だ。  しかし、そのことを誰かに言っても理解されることはない。  だから、この悩みを誰にも言えなかったし、言いたくもなかった。  私はただ平穏に過ごしたいだけなのに……  再び、ため息をついてしまった。 「どうしたの?」  そんな私を見て、彼女が声をかけてきた。 「なんでもないわ」 「そう?」  彼女はそれだけ言うとまたニヤニヤ笑いに戻った。  その笑顔は『作り笑い』だ。  それがわかるくらいには、彼女との付き合いは長いものになりつつあった。  そして、この付き合いは、まだまだこれからも続きそうだ。  なぜなら、彼女は私の友人だからだ。  私が望もうと望むまいと、周囲からはそうとしか見られていないのだから。  暇でしようもない時間が、だらだらと流れてゆく。  この世にあるどんな拷問よりも、それは屈辱的な時間かもしれない。  しかし、長く思える時間もいつか終わるもの。  そんな時間を私は、ただじっとして耐える。 「ねぇ、天使さん」  私の隣の席にいる彼女は、私を呼んだ。 「なにかしら?今、授業中よ。静かにしてくださる?」  私は、彼女の方を見ずに答えた。  彼女はそんな私の対応を気にすることもなく話を続けた。 「今日、一緒に帰らない?」 「…どうして?」 「なんとなく」 「嫌よ。」 「そう…。」  彼女はそう言うと黙ってしまったが、その沈黙と共にあったのは『作り笑い』だった。  私は、彼女のこの表情が嫌いだ。  だから、私は彼女から目をそらす。  そのまま、授業が進んでいく中で、隣の席からは沈黙が下りるのだった。  そんな時間が何分続いたのか?  いや何秒か?  私にはわからなかった。  沈黙を破ったのも彼女だった。 「ねぇ、どうして私のことがそんなに嫌いなの?」 「嫌いじゃないわ。」 「でも、教科書で叩いたりするのは、どうして?」  お前が嫌いに決まっているからだろ!  大声を出しそうになる。  そう、今は授業中なのだ。  私はかろうじて抑えた。 「えっと、いきなり壁に押さえつけられたから、驚いちゃったの。」  私は淑女らしい、嫌味を含んだ物言いで、彼女へ語り掛ける。  あのね、私、あなたのことが嫌いなの。  しかし、その後も彼女は、一向に私のいうことに従うことはなかった。  放課後。  私が帰り支度をしているところに、彼女がやってきた。 「一緒に帰ろう!」 「嫌よ。」    私は即答した。 「どうして?」 「あなたと一緒に帰る理由がないからよ。」 「理由なんて必要ないよ?」  彼女はそう言うと、私の手を取った。  そのまま私を教室の外まで連れ出そうとする。  諦めた私は、適当に荷物を取って、彼女についていく。  そんな私たちにクラス中から注目が集まっている。  私はその注目を気にしながら、彼女に引っ張られるままに歩いた。  そして、そのまま下駄箱のところまで来てしまったのだった。  私はそこで彼女の手を振り払うと靴を取り出した。  そして、そのまま私は、あいつと一緒に校舎を後にしたのだった。  ある日、休み時間。  いつものように教室の自席に着席していた。  あいつは今のところいない。  一安心だ。  でも私は警戒を怠らない。周囲には、同級生の話し声が聞こえる。 「ねぇ知ってる?……さんが……消えたんだって。」  私の耳に届いた、その噂話には、聞き覚えがあった。  それは私の耳にも届いていた。  その噂話の内容はこうだ。  この学校の生徒が行方不明になった。  それも一人だけではない。  短い間隔で、一人、また一人と。失踪しているのだ。  「天使(あまつか)さん!」  私の名前が呼ばれていた。  あいつだ。  それ以外にいない。 「…はい。」  私は、若干棘のある言い方をする。 「もー、天使ったら!」  彼女は私の肩をバンバンと叩いてきた。  チンパンジーのようなコミュニケーション。  私は苛立ちを覚えた。 「あの、やめてくださる?」 「えへへ、怒ってる?」  彼女は『作り笑い』を浮かべている。  むかつく!  しかし、それを私は耐えた。 「いいえ?でも、これは失礼ではないかしら?」 「コミュニケーションだよ!天使さん!」  そういって、なおも彼女は私の肩をバンバンと叩く。  私は、それを我慢した。  そして、休み時間終了のチャイムがなった。 「またね!天使さん」  彼女は『作り笑い』でそう言うと、自分の席へと戻っていったのだった。  放課後。  私は、教室の自分の席で一人座っていた。  今日は、あいつに捕まらないように、さっさと帰ることにしたのだ。  そんな私に声をかけてきたのは、クラス委員長の彼女だった。  彼女は、委員長なんてあだ名がつけられている女子生徒だ。  役職が板についている、というより、彼女こそが委員長というレベルでクラス委員長が似合っている彼女。 「ねぇ?ちょっといいかしら?」 「なにかしら?」  私は、委員長の方を見る。 「ちょっと天使さんに話したいことがあるんだけど……」 「ごめんなさい。今日は用事があるのよ」  私はそう答えた。  しかし、彼女は引き下がらなかった。 「あのすぐに終わるから。それに、あなたの友人のことで話があるんだけど。」    私は思わず怒りを覚える。  あいつは友人なんかじゃない。  しかし、その言葉を抑える。 「すぐに終わるなら、大丈夫かしら。」  なんとか冷静な調子を保ちつつも、そう答える。  なにもおかしくないはずだ。 「ええ、すぐに終わるわ、天使さん。」  真剣な様子で、委員長はそう切り出した。 「これまでの失踪事件についてなんだけど。」  失踪事件。  たしかに大事なことだろう。  それも、いけすかないあいつが関わっている。  委員長の話を聞き逃すことがないように、私はじっと耳を澄ます。 「それがどうかしたのかしら?」 「知ってる?これまで失踪した生徒のこと。」 「いいえ。」  なんだろう、このもったいぶった言い方は。 「えっとね、居なくなった生徒たちは全員、失踪する直前にあなたの友人と会っていたのよ。」 「そう。」  私は、興味のないそぶりを装う。 「あれ?あんまり驚いていないみたいね?」  そんな私に委員長は意外そうに言う。 「ええ、だってそれは彼女の日ごろの行いが招いた結果ではないのかしら?」  私は、そう答えた。  そう警察から疑われているのか、なんなのかよく分からないが。  あいつが変なことに首を突っ込んだ結果だろう、と思う。  しかし、委員長は納得がいかないようだった。  さらに言葉を重ねてきた。 「……彼女はあなたの友人なのでしょう?何かあれば、友達は助け合うべきよ?このままだと、彼女、犯人にされちゃうかも。」 「いいえ?ただの同級生よ。」  私はきっぱりと言い切った。 「え?でも……」 「でも、じゃないわ。」  私は、委員長の言葉を遮って続けた。   「彼女は私の友人なんかじゃないわ。」  私は、委員長にそう宣言する。  委員長はただただ困惑しているようだったが、私は少しだけスッキリした。 「でも、あなたたちは一緒に帰っているじゃない!」  委員長が食い下がってきた。 「それは彼女が勝手にやっていることよ。」  私はそう言い放った。  これまで溜まっていた感情が放出されていた。  少しだけスッキリしている。  でも、その私の言葉を聞いた委員長は、意外にも悲しそうな表情を浮かべていた。 「そう。じゃあ、最後に一つだけ忠告するわ。これまで失踪した生徒たちは全員、彼女と喧嘩をしたあとに失踪しているわ。彼女を友人として扱ってあげることね。」  委員長は、それだけ言うと教室から出ていった。    私はその言葉を聞いて、ぞっとした。  これでは、あいつが生徒を…。  委員長は、私を脅す気なのだろうか?  適当な噂を吹聴して、私をだましているのか?  …いや、委員長は絶対にそんな人間ではない。  ということは、嘘なんかじゃない。  たしかに、あいつは人の一人や二人を殺してもなんとも思っていないように見える。  私は、あの『作り笑い』を浮かべた表情を思い出す。  恐怖。  私は、あいつとどう接していいのか、分からなくなった。  ぞんざいに扱うと彼女の手によって消されてしまうかもしれない。  これまで私がたまたま生き延びれていたのは、彼女の寛容な精神による…いや、気まぐれだったのかもしれない。  そう思うと、私はあいつを丁寧に扱うしかないという事実に気が付いた。  次の日。  ホームルームが始まる前。  私はいつものように自分の席にいた。 「天使さん!」  あいつの声が聞こえた。  強い恐怖を感じたが、なんとか表に出さないようにする。  私はゆっくりと振り返った。 「おはよう。」  彼女は『作り笑い』でそう話しかけてきた。 「おはよう。」  私はそう返した。どこか私は、彼女に媚を売っているようにも見えるのかもしれない。  いや、実際、それは正しい。  なんといったって、彼女は人を… 「ねぇ?今日の放課後、時間あるかな?」  そんな私に対して、彼女はそんなことを言ってきた。  私は少し考える。  そして、こう答えた。 「ええ、大丈夫よ。いつもみたいに、私と一緒に帰りましょう?」  私は笑みを浮かべて、彼女へ語り掛ける。  絶対にこれまで、彼女へ向けたことなどない甘い微笑み。  彼女は、そんな私をじっと見た。  もはや、その表情は『作り笑い』ではなくなっている。 「えっ?どうしたの天使さん?」  彼女は、これまで見たことがない真剣な様子で私を見た。  その瞳はまっすぐ私の目を見ている。  強い恐怖を覚えた。  彼女が何を感じているかは全く理解できなかったからだ。  しかし、ここで彼女の意に添わぬことをいうのは悪手だ。  私は、自分の感情を抑える。 「今日は珍しく予定もないの。一緒に帰りましょう?」  私は生き延びたい一心で、心にもないことを口に出す。  甘い声、彼女に媚びるかのような態度。  しかし、それが精一杯の私。  その言葉を聞いた彼女は、もはや何も言わなかった。  代わりに冷たい視線をこちらに向けてきた。  これまでになかった反応。  いけすかないあいつの顔は、無表情なものへと切り替わっている。  それはこれまで見たことがないものだった。 「あっ、そ。」  冷たい響き。  私への興味が完全に消えたかのような、そんな捨て台詞だった。  そのまま彼女は、私から目を背けた。  顔には無関心を張り付けたまま、自分の席へと向かっていく。  周囲から同情した視線が投げかけられる。  なにか私はミスをしてしまったのだ。  その日は、もう二度と彼女との接触は一切なかった。  向こうから私への接触を避けているのだろう。  私は授業中、考えていた。  けども分からない。    考え込んでいる私を気にしているのか、委員長がチラチラと見ていた。  数日後の教室。  女子生徒が友達どうして話をしていた。 「また、うちのクラスの生徒、失踪したの?」 「うわぁ。」  会話は続いていく。 ……………… ………… …… …。 「ねぇ、天使(てんし)さん!」  私はハッとする。  目の前には、いけすかない彼女がいた。  休み時間だった。  教室で授業を受けたまま、私は寝ていたようだ。  目覚めると、どこか懐かしい教室の風景。  いつもと変わらない日常なのに。  ついさっきまでのことが、なぜだかすべてが遠い記憶のように感じられた。 「はい、なんでしょうか?」  私はいつものように、他人行儀な返事をする。  彼女の過剰なスキンシップが始まった。  そんな風になれなれしく触るな!  私に親しげな笑顔を見せるな!  だが、それを直接言うわけにいかない。  私は淑女なのだ。  私は心が広い。  たぶん、私の苗字が天使(てんし)であること、と無関係ではあるまい。    私は天使(てんし)…天使(てんし)なのだ、きっと。  そう、自分に言い聞かせることで、私は何とか怒りを宥める。  しかし、それでも溢れてしまう怒りの感情を使って、教科書で引っぱたく程度に彼女を攻撃する。 「いったー!」  彼女は、いつも通りに大袈裟に痛がるふりをする。  そして私は、そんな演技にイライラしていた。  彼女と私の関係の友人とも同級生とも言えない関係は、今日も明日も続いていく。  そう考えると、私は憂鬱な気分になった。
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