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内緒
私の母は読書家だ。家には母専用の大きな本棚があった。私ももう高校生だし、マンガばっかり読んでいないで小説にも手を出してみようかと思い、母の蔵書から一冊借りることにした。
棚の端から順に背表紙を目で追っていく。どれが面白いかなんて分からないから、見覚えのある作家の名前やタイトルがあれば手に取ってみよう。
そのうちある古い洋書に目が留まった。『夏への扉』だ。これは確か両親が結婚するきっかけになった一冊だったはず。
まだ二人が付き合っていたころの話だ。父は母がお気に入りのその本にコーヒーの染みをつけてしまったことがあった。それが原因というわけではないのだが、後に二人は別れることになった。一人になった父がたまたま立ち寄った古本屋で、母がお気に入りだった本を見つけて手にとってみると、自分がつけたのとそっくりのコーヒーの染みがあった。彼女のことを懐かしく思い出しつつその本を購入し、店を出ようとしたところでばったり母と再会した。そこから二人は再び付き合い始め、結婚することになったのだ。
それを本棚から抜き取り、カバーを剥ぎ取ってみた。あった。父がつけたというコーヒーの染みが輪のように丸く残っていた。
「何してるの?」
いつの間にか母が部屋の戸口に立っていた。
「ああ、ごめん。お母さんの本を借りようと思って」
「マンガならないわよ」
「わかってるわよ。小説を貸して欲しいの。って言うよりこれ見てよ」
手の中の本を母のほうに向ける。
「これ、お父さんとお母さんの運命の一冊でしょ?」
母は驚いたように本と私を交互に見てから、
「あんた、どうしてそのこと知ってるの?」
「昔お父さんが教えてくれた」
「へぇ」と母はなぜか苦笑を浮かべた。その表情は何か言いたげだ。
「え?どうしたの?」
「この際だから言っておくけど、実はそれ、私の本じゃないんだよね」
「うそ。でもほら、ここにコーヒーの染みが」
「だから、たまたま同じような染みがついていただけで、それは私の本じゃないの。私は本を大切にするからページを折ったりはしないけど、その本には折り目があったのよね。あとから気づいたことだけど」
「このことお父さんは?」
「知らないと思う」
「じゃあこれ、運命の一冊じゃないってこと?」
「そうでもないわよ。私の本じゃないにしても、染みのついた本を見てお父さんは私を思い出してくれたわけだし。おまけにそれを買うことになって、そして私とばったり再会した。そりゃお互い運命も感じちゃうでしょ。だからもう一度付き合うことになったわけだし、ちょうどそのころ妊娠していることも分かったから、そのまま結婚までしちゃったわけだし」
「あ。それって、私?」
「そう。できちゃった婚」
母は照れくさそうに笑った。
「ってことは、私にとっても運命の一冊ってことね」
「そうなるわね。この本がなければ結婚まで行かなかったかもしれないし」
「それなら私、この本読んでみようかな。貸してくれる?」
「もちろんいいわよ。あ、ただね……」
母は指を一本立てて見せると、
「このこと、お父さんには内緒よ」
「え、どうして?」
「だって、がっかりするでしょ。知らずに済むことなら、知らないままのほうがいいのよ」
そんなものなのだろうか。わからないけど、とりあえず「わかった」とだけ答えておいた。
後日、私が一人でリビングのソファに座り本を読んでいると、通りかかった父が足を止めた。
「お。それって夏への扉か?懐かしいなぁ」
言いながら私の隣に腰を下ろす。
「お前も小説読むようになったのか」
「うん。最初は運命の一冊にしたの」
「運命の一冊?ああ、お父さんとお母さんの、あれね」
「そう。あれ」
すると父は何か思い出したように、一瞬天を仰いだ。
「ん?どうかした?」
「お前に訂正しておかなきゃならないことがあったんだ」
「なに?」
「それ、運命の一冊には違いないんだけどさ、実はお母さんの本じゃないんだよね」
母からだけでなく父の口からもその話がでたことに驚き言葉が詰まる。どう返答しようか迷っているうち、
「お母さんはさ、本を大切にする人なんだ。だから折り目なんか絶対につけない。染みなんてもってのほかだ。だからこっぴどく叱られたんだけどね」
父は自虐的に笑う。
「でも最近それを読み返して気づいたんだけど、栞代わりに折ったような跡が一ヶ所、かすかに残っているんだよね。お母さんなら絶対にそんなことはしない。だから多分、お母さんの本じゃない」
「それって、お母さんには?」
「言ってない」
「どうして?」
「だって、悲しむかもしれないし、悔しがるかもしれない。今となっては本物を探すこともできないからね。それに、これが自分の本じゃないとわかったら、あれは運命の再会じゃなかったんだ、ってお母さんはもしかしたら思うかもしれない。まあいろいろ考えちゃってさ。だったら言わないでおこうと。気づかなかったことにしておこうと思ったわけだ。だから、お母さんには内緒だぞ」
うん、わかったと答えると、父は私の頭をぽんぽんと叩いてからリビングを出て行った。
なるほど。父も母もそのことには気づいていたけどお互い口には出さなかったのか。そのほうが相手のためにもなるし、関係性が崩れることもないと考えたのだろう。
だったら私も言わないでおこう。私たち家族が今までどおり暮らしていけるように。
お母さんの話を聞いた後、気になってこっそり調べてみたんだ。タイミング的にどうなの?って思って。二人が再会してすぐ妊娠がわかったって言っていたから。
DNA検査で親子鑑定。
両者に父子関係はない。
そんな結果が出たけれど。
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