一冊、二冊、星のように

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 ふらっと立ち寄った本屋で、棚をぼんやりと眺めるのが僕は好きだった。  仕事帰りに地元で、品ぞろえはそう良くはないのだが独特の棚になっているのが良い。  一生関わり合いのなさそうな、難しくて分からない話。  当たり前だからと思い込んで、見落としてしまうような話。  図録、絵本、時点、漫画、パズル、雑貨におもちゃ。  さて本屋とはテーマパークだったろうか。  そんな気持ちになる本屋の棚を、ただぼんやりと眺めるのが好きだった。  店には天体を取り扱った棚が一つ分あった。  床からすぐは引き出しなのだが、平置きの台があってそこから上は天井から1mぐらい下までは全部棚だった。  カラーの写真が多くて、高いとは思わないが、決して安くはないが綺麗な本が沢山置いてあった。  最初は、背表紙を眺めて気になったまま。  次は、中身をぱらぱらと眺めて、そんな星があるのかと関心を持つ。  ハードカバーなので、軽いわけでもなく。  そしてしっかり見て貰えるようにと大判なので鞄に入るわけでもなく。  よく来る店だったので、置いてある袋の大きさも知っていた。  準備もせずに来れば、ちゃんとは入らない。  そのぐらいの大きな、少し重くて、だが綺麗な本だった。  店にある天体の棚の、上から三番目。  右から2つぐらい数えたあたり。  もちろん、新しい本が入ったり売れたりもするから多少ズレたりはする。  でも、その棚を探せばその本はいつも置いてあった。  いつか買おう。  ふらりと寄ってみるだけの時も、漫画や雑誌を買う時にも思っていた。  けれど、その本は『買おう』と心に決めた時。  見つからなくなっていた、本が売れてしまったのだ。  それだけだったら、『あの本は入荷出来ますか』と聞けばいい。  タイトルが分かれば取り寄せて、またふらりと寄って買えばいい。  けれどその店は今日、閉店になる事が決まっていた。  流行り病で外に出ることが億劫になり、仕事も週の半分がリモートワークになっていた。  いつも帰りにふらりと寄っていたのだが、体調が良くなかったり急いでいたり。  本屋のある場所まで足を運ぶ回数は確かに減っていた。  ついでに寄るのが好きだったから、わざわざ行かなかったのも良くなかったのだろう。  随分と日常が戻ってきて、では行こうかと向かった所。  今日、その店は閉店だったのだ。  棚のほとんどに本が入っておらず、あれだけあった雑貨も什器も何もかもがガランとしていた。  何もない棚と同じように、ぽっかりと胸の奥に穴が開いたような気がした。  いつか買おうと思った本はそれだけではなかった。  けれど、何一つ、どれ一つ欠片も残っていなかった。  系列店に持っていくのかもしれない。  買っている最中の連載漫画作品が数冊だけあったので、それを買って店を出た。  馴染んだ店の名前が入った袋はもう、在庫がなかったのか見たことのない無地の袋だった。  カバーかけを頼めば、それだけは良く見た、馴染みのカバーだった。  突然の出来事にびっくりしながら。  大人なので、仕方がないと深い夜に染まる空を照らす、まあるい見上げて静かに帰った。  それから、あまり本屋にいけていない。  ゆっくり過ごしてどれだけ馴染んでも、そうして突然なくなるかもしれない。  そんな気持ちが頭を通り抜けて。  棚を見ても好きだった棚が、買えなかった本が過ってしまった。  はぁ、と深いため息が零れて居心地の悪さを覚えて店を出る。  そんなことを繰り返していた時だった。  普段あまり使わない駅で、人と会う約束をしていた。  けれど、どうやら電車が突然の不具合で車両点検となったらしく遅れるという。  時間を潰しておいてくれ、と言われたのでコンビニを見た。  そんなに大きな店ではないのですぐにでてしまい、メッセージアプリを確認する。  しばらく時間がかかるらしい、と連絡が来ていた。  服は先日買ったし、食べ物はこの後の約束の中で果たされるはずだった。  仕方がなく、しばらく近づきもしなかった大きな書店にふらり、と寄ってみる。  話題の本と見覚えのある雑誌の新刊の横を通り過ぎる。  雑誌はサブスクリプションで読むことが出来るし、話題の本も電子書籍で済ませている。  ダメもとで、天体の棚を見る。  俯いたまま一番下からゆっくりと顔を見上げると、棚の上の方。  見覚えのある大判で、ハードカバーの背表紙。  闇夜を照らす月のように、それは輝いて見えた。  今から人に会う約束があるのだから、『今度買おう』と思った。  尾を引かれる気持ちと棚に背を向けて、一歩踏み出した。  ―ー今度っていつ?  胸の奥から声がするような気がした。  多分気だけだ、そんな声はしない。  けれど、思わず振り返っていた。  透明なビニールカバーが暖かいオレンジ色の明かりに照らされているだけなのに。  やけに明るく輝く本に手を伸ばす。  左右の本との摩擦で出てこないのを、丁寧に指で広げて取り出す。  見覚えのある触り心地、知っているタイトル。  硬い表紙を捲れば、そこにはどこまでも広がる星。  年甲斐もなく心が弾むのを隠しきれず、本を閉じて大事に抱えて歩き出す。  スキップしそうなのを堪えて、あまり人のいないレジで会計を済ます。  大きな書店だからか、少し高い紙袋にはなったけれど、ピッタリ入る袋を持つ。  この後人と会うのに何をしているのか。  正気になって少し恥ずかしくなりながら、スマホを見れば相手から連絡が来ていた。  駅についた、と言うので急いで駆けていく。 「ごめんなさい、待たせてしまって」 「いや、交通機関なら仕方ない。怪我とかはしていない?」 「私はただ待っていただけだから。ところで……その紙袋は?」 「どうしても欲しかった本があって」 「へぇ……新刊? どんな本?」 「大きめの、特に新しくはないんだけど、星についての本だよ」  恥ずかしさをにじませながら微笑んでいると、相手が驚いた顔をしていた。 「どうかした?」 「私もこの本好きなんだ」 「そう、なんだ」 「ええ。それじゃあ本がダメにならないような場所に行きましょうか」  嬉しそうな彼女に手を引かれ、僕達は街中を歩きだした。  それがほんの数年前の事。  今、僕は本棚をぼんやりと眺めている。  ビニールのカバーが照らされて、薬指にはめた銀色の指輪と同じく。  キラキラと星のように輝いて見える。  彼女と共用になってしばらくの本棚には、同じ本が二冊刺さっていた。
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