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背中に熱を感じ、目を覚まし飛び起きた。
右手を背中にまわし触ってみるとパジャマがびっしょりと濡れている。
寝ていた床を見ると、なぜか砂地で紫色をした湯気がモヤモヤと立ち上がっている。
確か病院のベッドで寝ていたはずなのに、いつの間にこんな場所に移されたのだろう。
一体ここはどこなんだと横山昭二郎は首を傾げた。
病院のベッドの上で自分の余命はあとわずかだという覚悟はしていた。
ついにそのわずかな余命がつきて天国に来たのかと横山は思った。
天国にしては辛気臭い場所で、まるで地獄のようだ。
「まさかな」
横山は一人呟いた。
見渡す限り一面砂漠で他に何も見えない。
しばらく砂漠の先を目を凝らして見ていると、遠くに人影が見えた。人がいたことに横山は安堵した。
人影はまっすぐ横山に近づいてくるのがわかった。奴に助けてもらおう。横山はそう思った。
人影の顔が確認できる距離まできて、そいつが女だとわかった。
「女かよ」
横山は吐き捨てた。
助けてもらうなら男がよかった。女はあてにならない。
女は横山と目が合ったところで立ち止まり、横山に向けて一礼をした。
横山もペコリと頭を下げた。
女はニヤリと笑みを浮かべた。
女は若い。年齢は二十歳代くらいだろう。長い金色の髪を後ろに束ねている。顔は小さく、目は切れ長、鼻筋が通った美形だ。白いドレスがよく似合っている。
いい女だ。こんな女はそうお目にかかれない。周りには誰もいない。むさ苦しい男より若くてきれいな女でよかったかもしれんなと横山は思った。
女は一歩、二歩と近づいてきた。横山との距離が五メートルくらいになったところで、女はまた立ち止まり口を開いた。
「いらっしゃいませ」
女はニヤリと笑みを浮かべた。
「やあ」
横山は女の体をおさえつけてやろうと一歩前に出た。
そこで女は右手のひらを広げサッと前に出した。
それと同時に横山は後ろにはね飛ばされた。
「イテッ」
横山は尻餅をついた。
「横山昭二郎さんですね」
女が尻餅をついている横山の名を呼んだ。
「そ、そうだが」
横山は尻をさすりながら立ち上がった。
この女は、今わしに何をしたのだ、なぜわしの名を知っているのだと横山は不思議に思った。
「人生、お疲れ様でした」
女はそう言って横山に向けて慇懃に頭を下げた。
人生、お疲れ様でしたということは、やはりわしは死んでしまったということなのか。
「こ、ここはどこだ」
横山はとりあえずきいてみた。
「ここは死後の世界です」
女はそう言ってまたニヤリと笑みを浮かべた。
「死後の世界ということは、やはりわしは死んだのか」
「そうです、あなたの人生は先ほど無事終了いたしました」
病院のベッドの上で死を覚悟したが、あなたの人生は無事終了いたしましたと聞かされるとさすがにショックだった。
横山の頭に妻と息子や孫たちの顔が浮かんだ。もう会えないのかと思うと胸が詰まり言葉が出なかった。
「ショックを受けているようですね」
女は横山をバカにしたようにニヤリと笑った。
「笑うことないだろ。ショックを受けて何が悪い。自分が死んだとわかってショックを受けないやつがどこの世界にいる」
「それは失礼いたしました」
女はそう言ったあともニヤリと笑みを浮かべた。
横山はこの女の態度に腹が立った。
「わしはもう家族にも会えないのか」
「残念ながら、そういうことになります」
女は笑みを浮かべたままだ。
「一体、あんたは誰なんだ」
横山は女を睨んだ。
「私は神からの使いです」
女は背筋をピンと伸ばした。
「神からの使いってことは、あんたは天使なのか」
「はい。わたしは大天使のミカエルと申します」
「ミカエル、変わった名前だな。その天使がわしに何の用だ」
「あなたの人生の審判をするためにきました」
「審判だと。あの天国か地獄かとかいうあれか」
「そうです、よくご存じですね。今からあなたの85年の人生を振り返り、この後、あなたは天国に行くべきなのか、それとも地獄に落ちるべきなのかを審判させていただきます」
こんな小娘にわしの人生の何がわかるんだと横山は苛立った。
「わしは地獄に落ちるようなことはやっとらんよ。審判なんて必要ない。さっさと天国に行かせろ」
「うーん、どうでしょうか」
ミカエルは細く尖った顎に手をあて首を傾げた。
横山はミカエルのその態度が気に食わなかった。
「なんだ、その態度は。わしの人生にケチをつけるつもりか」
「ケチをつけるつもりはありません。ただ前もってあなたの資料に目を通させていただきましたが、天国に行けるようなことが見当たらないんです」
「そんなはずはない。わしは生きている間に地獄に落ちるような悪いことなど一切やっていない。天国に行けるに決まっている」
「あなたは生きている間に他人の為になることをやりましたか」
「他人の為になることか」
「そうです、他人の為になることを数多くやっていれば天国に行けます」
「なに言ってるんだ。やってるに決まってるだろ。わしは会社のため、家族を養うために必死で働いてきたんだぞ」
「それは他人のためではなく、会社のため、家族のためですよね」
「会社のため、家族のための何がいけない。会社や家族のために頑張るのは当たり前のことだ」
「そうなんです。勤務する会社のため、家族のために頑張ることは当たり前なんです。会社のために働くことで給料をもらっているわけですし、家族のために頑張るのは最終的には自分の生活のためでもありますから当たり前のことなんです。ですから、それくらいのことでは天国にいけません。もっと自己犠牲して他人のためになることをやっていませんと天国にはいけません」
生意気な女だ。なにが自己犠牲して他人のためだ。
「お前みたいな女にわしの苦労の何がわかるっていうんだ」
「あなたの人生の全てを、わたしはあなた以上に把握しています」
「バカなことを言うな」
「あなたは定年後に子供たちの為に毎朝、通学路に立ち子供達の見守りをしていましたね」
「そうだ、それは他人の子供のためにやったんだ。わかってるならそれを先に言え」
「はい。でも資料で拝見しましたが、天国行きには決定打に欠けます。ちょっとと言うかだいぶ弱いですね」
「なぜ弱い? 意味がわからん」
「知り合いに依頼されて渋々引き受けた感があります。嫌々やってたわけですからね。子供たちの安全の為という気持ちは弱かったようです」
「わしは、間違いなく家族の為、会社の為、社会の為に一生懸命に働いてきたんだ」
「だから、それは当たり前なんですよ。それくらいは、やってもらわないと人間界にいる資格はないんです。それよりあなた、地獄に落ちるようなことをやってますよね」
「そんなことは絶対にない。わしはずっと真面目に生きてきた」
「学生の頃に万引きしてますよね」
「なにわけのわからんことを言っとる。そんな遠い昔のことをここで持ち出すな。わしが中学生の頃の話だ。未成年で興味本位で魔が差しただけのことだ。それも安い菓子を盗んだだけだぞ」
「今も昔も関係ありません。あなたの一生を審判してるわけですから。それから、ここでは少年法なんて通用しませんから、未成年であろうと悪いことをしていれば地獄に落ちます。もちろん時効なんてありません」
「そんな、汚えぞ。お前はわしを地獄に落としたいだけなんじゃないか」
「そんなことはありません。公平に審判しているだけです」
ミカエルは無表情で言った。
「納得いかねえな」
横山は腕を組んでミカエルを睨みつけた。
「あなたに納得してもらおうとは思っていません」
ミカエルはそう言ってから口角を上げた。
横山はこのままだと地獄に落とされそうだと思った。ここは態度を変えた方が良さそうだ。反省した素振りだけでも見せておこう。
「万引きしたことは謝る。申し訳ないと思っているし反省はしている。軽い罪だ。これで許してくれ」
横山はペコリと首を折った。
「謝っても反省しても、犯した罪は消えません」
平然とミカエルは言った。
「なんだと」
ミカエルの胸ぐらを掴んでやろうと前に踏み出した。
そこでミカエルが右手を前に出すと、横山はまた後ろに飛ばされ尻餅をついた。
「イテッ」
「犯した万引きの罪が重いか軽いかは、あなたが判断するものではありません。ここでは被害にあった方が、それが原因でどんな思いをしたかで判断します。なのであなたが軽いと思っていても被害にあった方が、それが原因で辛い人生になっていたら重い罪になります。なので、菓子一つ盗んだだけでも地獄行きになることは充分にありえます」
ミカエルの口調はきつく早口だ。
「地獄に行くのは殺人とか凶悪な犯罪をした人間が行く所じゃないのか」
横山は腰をさすりながら立ち上がった。
「あなたの考え方は生きていた頃とまったく同じで甘いんです。悪いことをすれば地獄に落ちます。絶対に天国には行けません」
「何とか助けてくれ。お願いだ」
この女にムカつくが、ここは堪えて泣きつくしかない。地獄に落とされるわけにはいかない。
「わたしはあなたを助ける為に、ここに来ているわけではありません。自分が悪いことをしておきながら、誰かに助けてもらおうという考えが甘いんです。最近の人間界の甘さが、あなたを見てよくわかります」
「……」
横山は返す言葉がなかった。ただ唇を噛みしめていた。
「小学生の頃、同級生の加奈子さんという女の子の容姿をバカにして、いじめてましたよね」
「いや、いじめと言うほど陰湿なものではない。からかって遊んでいただけだ。子供の軽いじゃれ合いだ」
「先ほども言いましたが、罪の重さは、あなたが判断するものではありません。いじめを受けた加奈子さんがどんな思いをしたかで決まります。彼女があなたのいじめが原因で自殺でもしたら、ここでの審判は殺人と罪は変わりませんから地獄行きは確定です」
「そんなバカな」
「それから不倫もしましたよね」
「いや、それも魔が差しただけだ。仕事で悩んでいた時にいろいろと助けてくれた女性で、あの頃は妻ともうまくいってなかったんだ」
「ここはあなたの言い訳を聞く場ではありませんので、魔が差したからとか関係ないですから」
「……」
「では、ここで暫くお待ちください。あなたにくだされた審判の結果を確認してまいります」
ミカエルは踵を返し、来た道を戻って行った。小さくなっていくミカエルの背中に向かって叫んだ。
「すまん、頼む。わしを許してくれー」
ミカエルは立ち止まり振り返った。横山に向かって頭を下げたのは確認できた。それはどういう意味だろう。許してくれるということだろうか。
横山は暫く立ち尽くしていた。座る場所もない。地面に座れば、尻は紫色の湯気で熱くなり濡れてしまう。すでにズボンの尻のところと裾はビショビショに濡れてしまっている。ズボンの尻のところと裾だけではない。気づけば、横山の全身は汗でビショビショになっていた。
ミカエルがゆっくりと歩いて戻ってきた。
横山は向かってくるミカエルの表情を見たが、無表情すぎて読みとれない。天国か地獄か、一体どっちになったんだ。
ミカエルは無表情を崩さないまま横山の前に立った。
「では、審判の結果です」
横山は深い息を吐いた。顔が強ばっているのが自分でもわかる。
ミカエルは横山のその表情を見て、右の口角だけを上げた。
苦しんでる横山をいたぶるような態度だ。性格の悪い女だ。こいつこそ地獄行きだろうと横山は思った。
「まず万引きの件です」
ミカエルは横山の顔を見た。
相変わらず嫌な笑みを浮かべている。
横山は「ああ」とだけ言った。
「当時、万引き被害にあった方はそのせいで経営難に陥り頭を悩ませていましたね。結局、店を閉めてしまいました。その責任はあなたにもあります」
「菓子一つで何が経営難だ。わしの責任ではない」
横山はそっぽを向いた。
「確かにあなたの万引きだけが原因ではありませんので、これだけであなたの地獄行き確定にはいたりませんでした」
「そうか助かったな。まっ、当たり前だがな。そんなことで地獄行きになるなら、死んだやつは全員地獄行きだ。バカバカしい審判だ」
「次にいじめの件ですが」
ミカエルは横山の言葉を無視した。
「あんなのはいじめではない」
横山は言葉を吐き捨てた。
「加奈子さんはあなたのいじめのせいで学校に行きたくないと感じた時期もあったようです」
「いじめてたのはわしだけじゃない。わしのはまだマシな方だ」
横山が言うとミカエルはキツい視線を横山に向けてきた。
「あなたからいじめを受けていた加奈子さんですが、彼女をいじめから守ってくれた女友達がいたようです。美知子さんという女性です。加奈子さんは美知子さんのおかげで勇気を持つことができ、不登校とか自殺とかは考えなかったようです」
「そういえばわしが加奈子をからかってると、美知子はわしに鬼の形相を向けて怒ってきてたな」
「そうですか。その美和子さんのせいで、いじめの件でも残念ながらあなたを地獄行き確定には出来ませんでした」
「残念ながらだと」
横山はミカエルを睨みつけた。
「はい、残念ながらです」
ミカエルは唇を噛みしめた。
「どういうことだ。お前はわしを地獄に落としたいわけか」
横山は声を荒げた。しかし、ミカエルはまた横山を無視した。
「それから不倫については、奥さまから許してもらえて、その後は夫婦円満でしたし、不倫相手の方も、その後、幸せに暮らしていましたので、この件でもあなたを地獄行きには出来ませんでした」
「出来ませんでしただと」
「そうです。残念ながら、決定打が乏しくあなたを地獄に落とすことは出来ませんでした」
「やっぱりお前はわしを地獄に落としたかったのか」
横山はミカエルに向かって怒鳴った。
「そうです。わたしたち天使は出来の悪い人間を地獄に落としてしまいたいんですよ。天国と人間界をもっときれいなところにしたいですから。汚いもの腐ったものいらないものはさっさと地獄に捨てたいんです。人間界で流行っている断捨離ですかね。もう少しであなたも地獄に落とせたんですが、本当に残念です」
「わしのことを出来の悪い人間だと」
横山は拳を握りしめた。
「はい」
「わしのことを汚いもの腐ったものいらないものとも言ったよな」
「確かにそう申し上げました」
ミカエルは平然としている。
「クソー、こんな失礼なやつに会ったのは生まれてはじめてだ」
「生まれてはじめてですか」
「ああ、そうだ」
「あなたはもう死んでいますがね」
ミカエルは「フフフ」と横山をバカにするように鼻で笑った。
「うるさい、黙れ」
「実はあなたを地獄に落とせなかった理由の一つに子供たちを見守った件もあります。あなたが笑顔で見守ってくれていたおかげで、学校へ行くのが苦痛でなくなった子供たちがいたそうです。広輔くんと彩花ちゃんという子供たちです」
「広輔と彩花か」
「覚えていますか」
「ああ、いつもわしに挨拶してくれたのが嬉しかったことを覚えている」
「広輔くんは現在医者になって発展途上国で人の命を救うことに人生を捧げています。彩花ちゃんは日本を良くしたいと政治家を志しています。あなたも少しはそれに貢献したということになっています」
「広輔と彩花がそんな風に成長してくれたことは嬉しいことだ」
「あなたにもそんな風に思うきれいな心があったんですね」
「わしだってそれくらいの心はある」
「しかし、わたしは広輔くんと彩花ちゃんの件はあなたの力ではなくお二人の力だと思うのですが、審判の結果がそういうことなので仕方ありません」
「これでわしは天国に行けるのか」
「それは無理です。あなたは天国に行けるようなことはやっておりませんから」
「地獄に行かなくていいんだろう」
「ええ、わたしの力が及ばず、あなたを地獄に落とすことは出来ませんでしたから」
「なら、わしはどうなるんだ」
「もう一度やり直しですね」
ミカエルは残念そうに口元を歪めた。
「やり直しだと」
「はい、やり直しです。あなたはもう一度、人間として生まれ変わって人生をやり直してもらいます」
「また人間として生きられるのか」
「ええ、まあ、そういうことです」
「よし」
「今回、わたしにとってはアンラッキー、あなたにとってはラッキーでしたので、あなたを地獄に落とすことはできませんでした。しかし次回は覚悟しておいて下さい」
「次回だと」
「ええ、これからあなたは生まれ変わり、人間として新たな人生を歩むことになります。そしてまたいつかは死んでこの場所に来ます。その時が次回です」
「また審判があるのか」
「ええ、死んだ人間は必ず審判をします。なので次回の審判で、又お会いしましょう。生まれ変わってからも中途半端で他人の役に立たない、自分本位な人生を過ごしておいて下さい。そうしたら、次こそはあなたを地獄に落としますので」
ミカエルはそう言って踵を返し歩きだした。
横山はミカエルを無言で見送った。
横山は自分から離れてドンドン小さくなっていくミカエルの背中に向かって叫んだ。
「次回、天国に行くためにはどうしたらいいんだ」
ミカエルがそこで立ち止まり振り返った。
ミカエルはニコリと笑みを浮かべた。
「もっと、他人への思いやりの心を持つことですね」
ミカエルはそう言って消えた。
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