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「息子を……ピーターを呼んでくれ」
痩せた男は自宅ベッドの周りを家族に囲まれ、最期のときを迎えようとしていた。
「父さん、ピーターだ。分かるかい?」
30代半ばくらい、腕まくりした白いシャツを着込んだ息子が側に跪き、父の手を握った。
「……そこの……書棚に、大きな古い革表紙の本があるだろう……それを、ここへ」
言われた通り、ピーターは『何百年前に書かれたのだ?』と不気味に思えるほど古い本を携えてベッドサイドへと戻ってくる。
「これかい?」
「ああ。……ピーター、よく聞きなさい。それは17世紀にドイツのとある高名な医者によって執筆されたものでな。……そのタイトルは『不老長寿』だ」
「ええ!」
家族全員が息を飲む。
「実際、その医師は96歳という当時ではとても長生きをし、病院に掛かることもなく自然にこの世を去ったという……」
何処まで本当の話か分からないが、もしもそうだとすれば何かの秘法が記されているのだろうか。
「古書店でその本を見つけたとき、儂はすでに余命宣告を受けたあとでな……ドイツ語の辞書と見比べながら解読して……泣いたよ」
男の両目からボロボロと涙がこぼれている。
「儂は、この運命の一冊に出会うのが遅かったと。何故、もっと前に出会わなかったのかと……だがピーター、お前はまだ若い。この本に書かれた秘法を、受け継いで欲しい。健康で……長く……」
男の言葉はそこで切れた。
「何ということか……」
すぐにきてくれた神父様がベッドサイドで祈りを捧げてくれている間、ピーターは居間でその本を傍らに置いてじっとタバコの煙をくゆらせていた。
「ねぇ……その本だけど」
ピーターの妻が恐る恐るやってくる。
「中は見ないの? あなた、大学でドイツ語を学んでいたわよね?」
ならば読めるだろうと、催促するように。
「……そうだな」
ピーターはその分厚い表紙をめくった。やはりドイツ語だが、真ん中に1行しか書かれていない。これならすぐに読める。
『だから言っただろう? 何回も私は言ったはずだ。何故、それを守ろうとしないのかね、君たちは』
「……これは? オペラか何かのセリフか?」
そう疑念を感じつつ、ピーターは次のページをめくった。すると。
『ちゃんと聞いていたのか?
①タバコと酒から足を洗え
②贅沢なものを口にし過ぎるな
③適度に運動をしろ
と、口を酸っぱくして言ったはずだ』
と書かれていた。そして、その次のページには。
『そして君たちはそれを守らず、またしても不健康に早くこの世を去るのだ』
とだけ書かれ、その後のページには何も書かれていなかった。延々と続く『余白』。
「ねぇ……すごく簡単そうなことみたいだけど、何が書いてあったの?」
そう尋ねる妻に、ピーターは物悲しそうな顔で本を閉じながらこう言った。
「『不老長寿には大きな犠牲が必要だ』と書かれている。長生きとは、生きる楽しみを捨てることだと」
何て悲しいことだろうか。父にできず、自分にもそれを成し得ることなぞできようものか。本当の後悔なんて最期の最期まで実感することはあるまい。
そしてこの本は、明日にでも古書店の本棚に並ぶのだろう。
完
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