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スピンオフからはじまる恋
「くそくそくそくそ!」
男はうつ伏せになりながら、床にパンチをくらわせていた。
ただいま午後十時三十分。
時田の独り暮らしの部屋の壁は薄いので、さっきからやめろと注意しているが男は一向に聞く耳をもたない。
「おい、いいかげんにしろよ」
だが時田がちょっと本気モードで注意するとすぐ止まった。男は体を縮こまらせ床につっぷしたまま動かなくなる。
小さなモップのような金色の頭のてっぺんには、つむじがふたつ綺麗に横並びになっている。
ピアスだらけの耳に、それなにどこ産?とツッコミたくなるような虎のムキ顔が背面に描かれた赤いスカジャン。
見るからにチンピラの舎弟という男の、頭のてっぺんだけが行儀良くて少し笑えた。
たぶん他のヤンキーとの差別化を図ってこんな時代錯誤な格好をしているに違いないが、なまじ顔が整っているだけに服に着られている感が否めない。
髪を暗くし、もう少し綺麗めな格好でもしたら良いところの坊ちゃんに見えるだろうが、そうなるとアイツの視界にこの男の姿は一生入ることが無かったわけで。
恋愛とはつくづく難儀なものだ。
だが時田はそんなセンチメンタルな気持ちは微塵も表に出さず、男の正面に座り、ピースサインをつくった指で男のつむじを軽く押す。
「あーあ、これで騒音の苦情がきたらどうしよー。ここ追い出されることになったら、さっきアイツにしたみたいに俺の為にも泣いてくれたりするの?」
時田がからかい交じりにそういうと、男が不機嫌そうに顔をあげた。ぎらぎら、そんな擬態語が聞こえそうなほど鋭いまなざしで睨みつけられる。しかし時田の職業は警察官だ。むしろその瞳孔開き気味の潤んだ眼がちょっと可愛くすら思えてくる。
「なめてんのか、てめえ」
「え?何お前、俺に舐めて欲しいの?やだよ、お前ちいさそうだもん」
「は?っざけんな……ッ!」
男が大きく拳を振り上げ膝立ちになる。時田が身じろぎせずそれを見上げていると、男がプルプルしながら上げた拳を静かに降ろした。
どうやらさっき式場で男に仕掛けた逆えび固めのせいで、時田は触れたら危険人物に認定されたらしい。
男はチッと舌打ちすると、さっき手で払って落としたビールの缶を開けて一気に飲み干した。炭酸がむせるのか口の端からビールがこぼれ、それでも飲もうとする姿は苦しそうで痛々しい。
—そりゃ痛いよなぁ、失恋したんだもんなぁ
再びクソッと言いながら袖で口元を拭う男の目尻には、多分ビールではない透明の液体がにじんでいる。近くで見た男の顔は思いのほか若かった。
そういえば取りおさえて調べたとき、二十歳と書かれた運転免許証が男の財布から出てきたのを思い出した。
今年三十二の時田とは一回りも違う。
体つきも小柄で見るからに幼児体系で、大柄で筋肉質の時田とは何もかもが違っていた。
それなのに。
何もかも違う自分たちが唯一同じだったことがある。
それはお互いアイツーー小野寺洋一に恋をしていたことで、今日失恋したことだった。
結婚式場で見た小野寺の幸せそうな顔が今でも脳裏に焼き付いている。
職場の同期として親友として「幸せになれよ」と言った言葉は嘘じゃない。だけどこの男が式場に乱入してきて「結婚するな」と泣きながら訴えたとき、喉元から熱いものがこみ上げてきたのも事実だった。
バカだよなぁ、お互い。
相手に本音をぶつけようがぶつけなかろうが、現実は何も変わらないのに——
そんな言葉を飲み込み、時田は男の前髪を優しく掬う。
「今日は振られたもん同士、とことん飲んじまうか」
時田が自虐するように笑うと、目の前の琥珀色の眼が見開かれる。
「うそだろ?だってアンタ、小野寺サンの同期で親友だって……」
「ん——……まあ、そうだな」
「……なんだよそれ。そんなん、めちゃくちゃ苦しかったじゃん」
まるで自分のことのように傷ついている男の顔を見て、あの時以上に喉元から熱いものがこみ上げるのを感じた。
男は急に大人しくなって、体育座りをしながら空になったビールの缶のフチをひたすら噛みまくっている。更に時田を伺うようにチラチラこちらを見てくる様子はまさに小リスのようで、耐えきれなくなった時田は吹き出し、肩を震わせて笑った。
「おまえ可愛いなぁ。なに、一丁前に気ぃ使ってくれてんだ?」
時田が男の頭をくしゃくしゃにすると、男はカッとなった様子でこちらに向かってきた。笑って気の抜けている所にのしかかられて、時田は男を抱えたまま床に背中を打ちつける。だが男はすぐさま上体を起こすと、時田に馬乗りになりながら再び拳をふりあげてきた。
「まっじでこのオッサン許さねぇ!つか、いいかげんに笑うのやめ——」
しかし男の言葉はそのまま途切れた。
笑いながら目元を覆っている時田の掌が涙で濡れていたからだ。
時田はそれでも笑い続けるふりをした。泣いていることを認めたくなかった。自分がこんなにも傷ついているということにも。
「……大人ってなんか、めんどくせぇのな」
男はふいにそうつぶやくと、体をふたつ折れにしておずおずと時田の胸に頭を寄せてきた。
男の体は温かかった。
見た目だけでなく子ども体温の男の体はじんわりと時田になじみ、強張っていた全身の力がぬけてゆく。
「こういうの、なんていうんだけ。そうだ、傷口に塩をぬるってやつだ」
「おいおい、傷口さらに広げてどうすんだ。こういうのは傷のなめ合いっつーんだろうが」
思わず上体をあげてつっこむと、上目遣いでこちらを見ている男と目が合う。その大きな瞳は時田を捕らえ、じっとみつめたと思うと、やがて満足げに眇められた。
「へへっ、ここにも泣き虫はっけーん」
無邪気に笑う男の顔は、目がさめるほど美しかった。
時田はこれまで死ぬほど思い出していた小野寺の笑顔が、今、記憶の中からゆっくり遠のいていくのを感じていた。
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