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第1話 マリファナ・パーティー
蛍のような小さな光がポッと灯った。ジャッカルがマリファナのジョイントを右手の人差し指と中指の間に挟んでタバコのように吸っていた。煙をしばらく肺に留めてからふーッとゆっくり吐き出す。そして真一文字に結んでいた口の端を少し歪めてふふッと笑った。
ジャッカルというのは本名ではなくあだ名である。彼はかつてジャッカルという名のロックバンドを組んでいたらしく、それがそのまま彼のあだ名になった。
彼の個人名やなんの楽器を担当していたのかはしらない。なにかしらの楽器を演奏しているところも見たことがなかった。が、スキンヘッドで両耳にいくつものシルバーピアスを付け、黒のタンクトップからは牙を剥いた狼などのタトゥーがいくつも覗いており、その姿にロッカーとしての雰囲気だけは今もしっかりと残していた。
「ほらよ」
彼はそう言って左隣に座っていた走り幅跳びにジョイントを手渡す。走り幅跳びというのもあだ名である。彼の組んでいたお笑いコンビの名前だ。彼はぽっちゃりと小太りでうっすらと無精ひげを生やし、頭には白のイスラムハットを被っている。走り幅跳びなんていうが、アスリートとは程遠く、どちらかと言えば、部屋に引きこもってポテチをぼりぼり貪り食べてそうなイメージだった。
「大喜利のお題出していいか?」
走り幅跳びはマリファナの煙をふーッと吐き出してから左隣の漫画家のほうに顔を向けて訊いた。
「お題?」
「こんなマリファナは嫌だ。どんなの?」
「うーん……、吸うと死ぬ?」
漫画家のその回答に走り幅跳びはぷぷッと笑う。が、採点は厳しい。
「0点だな」
「笑ってたじゃん」
「いや、逆にな。つまらな過ぎて逆に笑ってもうたわ。まあ、ええわ」
走り幅跳びはそう言って漫画家にジョイントを手渡した。
走り幅跳びは栃木県出身なのに標準語と関西弁の入り混じったおかしな話し方をする。かつてコンビを組んでいた大阪出身の相方の影響もあるようなのだが、面白い雰囲気を出そうと必死な感じがして、私はなんとなく苦手だった。
漫画家はかつて漫画家を目指していたという。が、軽くカールした長髪といかにも生命力の弱そうな色白の容姿は漫画というよりも小説でも書いていそうな文学青年の雰囲気を放っていた。
漫画家はふーッと一服してから走り幅跳びに言った。
「お手本を見せてよ。こんなマリファナは嫌だ。どんなの?」
「初恋の味がする」
そこへジャッカルが言った。
「二人とも0点だ。バカ野郎」
それに先生があははと声をあげて笑った。
彼女は私の左隣で黙々とマリファナのジョイントを作り続けていた。半透明の紙の上にジョイントの吸い口にする厚紙のクラッチと細かくほぐしたマリファナを置き、それらを丁寧に巻いていく。
先生はここバンコクでタイ人に日本語を教えるアルバイトをしていた。そのため、おかっぱ頭で黒縁メガネをかけた小学校教員のような見た目も相まって、そのまま先生というのが彼女のあだ名になっていた。
そして、私……。
「ほら、詩織ちゃん」
「ありがと」
私は漫画家からジョイントを受け取る。
私だけはあだ名ではなく、本名の詩織で呼ばれていた。というより、呼ばせていた。かつてプロのダンサーを目指していたのでダンサーというあだ名を付けられそうになったのだが、それを拒否していた。あまりにもダサいあだ名だし、ダンサーを目指していた頃の過去とはきっぱりと決別したかったからである。
私はジョイントを一服してから左隣の先生にまわした。
ここに車座になっている五人のメンバーの中では唯一、先生だけがちゃんと働いて収入を得ていた。が、日本で夢破れたり、現実に嫌気が差したりしてタイのバンコクに逃げてきて堕落した生活を送っているダメ人間であるということは全員同じだった。そしてそんな彼らと不定期に先生のアパートの部屋に集まっていっしょにマリファナを吸うのは、私にとってたまらなく心地のいい時間だった。
ジョイントが私たちの間を何周もまわり、吐き出された白い煙が蛍光灯の青白い光に照らされた室内をふわふわと漂う。徐々に酩酊が深くなっていき、やがて距離感に異変が生じていた。
白いタイルの床の上に漫画家の左手が置かれていた。女性のようにほっそりとした指だが、中指の第一関節の横が小さく腫れている。その手は私から何メートルも離れているように見えたのだが、手を伸ばすとあまりにも簡単に届いてしまい、私は漫画家と手を重ね合わせていた。
漫画家ははッとした表情で私のほうを見る。私は訊いた。
「これってペンだこでしょ?」
「う、うん……」
「左利きなの?」
「そうだよ」
「今でも漫画を描いてるの?」
「ちょっとね」
「どんな作品を描くの?」
「SFっぽいのが多いかな」
「ふーん、鞭で叩かれたり、蝋燭を垂らされたりするの?」
私がとぼけたふりをして訊くと、漫画家は口元にふッと笑みを滲ませて嬉しそうに答える。
「それはSMでしょ。僕が描いてるのはSMじゃなくてSFだよ」
「ねえ、今日の日本語の授業でね……」
先生が口を開いた。
「形容動詞を教えたんだけど、教科書にハンサムっていう形容動詞が載ってるの。だけどさ、ハンサムなんて言葉あまり使わないよね。そもそも外来語だし。あの教科書、絶対におかしいよ」
「たしかに。ハンサムっていうとなんかギャグっぽくなるよね」
誰かが言った。空間の認識が曖昧になった感覚の中では、誰が喋っているのかさえあまりよくわからなくなっていた。誰かの口から発せられた音の羅列はどこか他人事のように室内を漂い、私はその意味だけをかろうじて理解する。
「イケメンって言葉を教えてやればいいんだよ」
「でも、それってスラングだよね」
「じゃあ、男前?」
「それはもっと違うと思う」
「おっぱい」
誰だろうか、会話の流れを断ち切ってまったく関係のないワードをぶち込んできたのは。どうせ走り幅跳びだろう。
「ねえ、詩織ちゃん。おっぱいってなに?」
漫画家が私の顔を覗き込んで訊いた。どうやらおっぱいと発言したのは私だったようだ。私はそれがおかしくてうふふふふと笑った。
後頭部にごつんとなにかがぶつかった。無意識のうちに床に仰向けになっていたのである。
「大丈夫?」
誰かが訊いた。
「うん、ぜんぜん大丈夫」
天井の蛍光灯に一匹の蛾がコツンコツンと何度も体当たりしながら鱗粉を撒き散らしていた。私はその蛾を掴もうとするが、その手はすかすかと空を切るだけだった。
誰かが私の口にまたジョイントをくわえさせた。煙を深く吸い込んでしばらく肺に留める。
ああ、堕ちていく……。
谷底をどこまでもすーッと落下していくようなその感覚に身を委ねながら、天井の蛾に向かってふーッと煙を吐き出した。
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