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渋柿勇気が転校してきたのは、中学三年の五月だった。彼が教室に入ってきた時、一番最初に上がった声は女子生徒の黄色い歓声だった。額にかかったサラリとした前髪に、まるで女の子みたいな透き通るような白い肌。吸い込まれるような大きな黒い瞳。簡単な話、彼はもはや芸術的ともいえる美しさを持つ容姿をしていた。あれほどに教室内が色めきだったのは後にも先にも最後だったと思う。
そして彼がもてはやされるのはその渋柿という珍しい名字にも理由があった。朝のホームルームが終わると、案の定生徒が彼の周りを取り囲み同様な質問を投げかけた。
「もしかして、キミのお父さんって渋柿大河なの?」
その質問に彼は小さく頷いて肯定の意味を示した。それでまた教室内に割れんばかりの歓声が上がった。
渋柿大河は日本を代表するミュージシャンだった。彼の歌うバラードは聴く人間の共感を呼び、その心を震わせた。ちょうどその頃は渋柿大河が二十代の頃にリリースしていた楽曲があるアーティストにカバーされて、注目を浴びていた頃だった。
矢のように次々と質問を浴びる渋柿勇気を僕は教室の隅でぼんやりと眺めていた。ある種の嫉妬や羨望がまるっきりなかったと言えば嘘になる。僕は健康な身体を持つ中学生で、彼を囲むその輪の中には、当時密かに心を寄せていた女の子もいたからだ。
でも僕は彼を憎むことは一切なかった。僕はちょうどその時くらいから、人生には人それぞれある程度の地盤がもともと固められていて、そこに存在する差を嘆くのは時間の無駄だという一種の諦観を身につけていたからだ。
そんなわけで渋柿勇気はたった一日でクラスの中心に据え置かれたが、それも長くは続かなかった。その理由は簡単だった。彼は学校にいる間ほとんど口を開くことはなく、ほとんど誰に対しても関心を抱くことがなかったからだ。
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