隣家の子猫

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隣の部屋の田中さんが猫を育て始めたと聞いた。先週の火曜日に玄関先に捨てられていた猫を拾ってしまい、その日は有給を使って世話を始めたらしい。ペット飼育ができるマンションでよかったですよー、と話していたと、噂好きの小島さんが話していた。 それを聞いて居ても立っても居られなくなり、田中さんを訪ねた。 「あの、すみません、田中さん」 「おや、西島さんではないですか。どうしました」 「猫を……買い始めたとお聞きして……」 「あ、この子なんです」 と子猫を抱き上げて見せてくれた。 少し毛の長い、白地に茶と黒の色の模様が頭と腰に集中した、いたずらっぽい緑の目の子猫。 間違いない。中池さんだ。 僕の同僚の中池さんは、ショートカットがよく似合う美人の主任だった。 製薬会社の家畜用飼料を研究開発している僕らの部署では、それまでのノウハウを活かして飼育動物の飼料開発グループを新設した。中池さんはそのグループのリーダーだった。猫が好きな中池さんの発案で、先ずは猫用の飼料を開発していた。漁で廃棄される魚、頭数制限のために狩られた野生動物のジビエを使うことで、持続可能な自然環境への貢献も図る目的もあった。 やっと出来上がった魚を使った試作品を試食するにあたり、まずは中池さんが食べることになった。 「うーん、もうちょっと硬い部分を残した方がいいかなー」 その直後、中池さんが倒れた。 会社から救急車で運ばれた中池さんが脱走した、という知らせが月曜日に届いた。 一係員の僕にどうこうできるものもなく、そのまま出社を続けていた。 玄関先で固まった僕を 「あの、西島さん、どうかしましたか?」 と心配してくれている。 あ、あの、なんでもないです、失礼しました、と慌てて家に帰る。 中池さんだ、間違いない。僕の家に来ようとしたんだ。 中池さんは仕事のビジョンも明確で 、部下にも同僚にも上司にも慕われている、有能なリーダーだった。 しかしなぜか僕に執着を見せるようになっていた。同僚の安藤さんと打合せをしたり、受付の三島さんと談笑したり、科長の鴻池さんと飲みに行ったりすると、途端にラインで僕を呼び出した。呼び出されて特に怒られるということもなく仕事の説明をされていたのだが、呼び出されるのは決って女性となにかしら接触した時だった。嫌がらせをされるわけでも交際を強要されるわけでもないため、誰にどう相談すべきか決めあぐっている最中に、中池さんが倒れた。その時病院で妙な噂があるらしい、と見舞いに行った安藤さんから聞いた。 中池さんの病室からは夜な夜な猫の鳴き声のような声がするらしい。そのうち中池さんのベッドが、大部屋から個室に移った、とも聞いた。 そんな中池さんが脱走したと聞いて、真っ先に僕の所に来るだろう、と考えていた。 実は僕には社内での役割がもう一つあり、ペット用飼料の開発経過を製薬部門の橋本さんに知らせることだった。研究費の出どころと額、開発の議論の内容、グループ内での役割分担。業務内で知り得た内容を内通していたのだ。部署内での人事評価に関わる命令だろう、と考えていたのだが、先々週の水曜日に橋本さんから手渡されたものを見て、その考えに自信を持てなくなっていた。 それは茶色い粉末だった。 その粉末を完成した試食品にかけ、試食しろ、というのだった。 正直嫌だった。その粉が何かも教わらず、その上かけて食べるなんて。試食品自体も安全性が確定していないのに。 そもそもペット用の飼料を人間が食べてなんかいいことあるのだろうか。 だが部署の、ひいては会社の命令に従わない選択肢はなかった。内通をグループにバラされたら、グループや部署内だけに留まらず、会社全体での立場が危うかった。 今考えると、そんな会社辞めてしまえばよかったのだ。 だが僕は従おうとした。試食品にひっそりと粉をかけ、食べようとした瞬間、中池さんに奪われた。 中池さんは僕の身代わりになったのだ。ひょっとしたら猫になったのは中池さんではなく僕であるべきだったのか。チクリと胸の奥が痛んだ。 そんな事を考えていると、玄関のチャイムが鳴った。 モニターを覗くと、なんということだ、中池さんが映っているではないか。僕には心臓が一瞬裏返ったかのような感覚が襲った。モニターの中池さんは人間の姿であった。 「西島くん、ご心配かけました。その通り私は元気です。橋本さんが渡した粉は鑑定に回しています。そのことで少しお話が」 中池さんは内偵者だったのだ。僕が怪しい動きをしていたのをチェックしていたのだろう。女性と話している時に連絡してきたのはその活動の一環だったのだ。首筋にナイフを当てられたかのような感覚になった。 では、あの子猫は? 慌てて田中さんに電話で連絡すると、女性が出た。田中さんは独身だったはず。恋人が来室したにしては誰かが訪れた気配もなかった。女性はあちこちに関心が移るらしく、田中さんの様子を聞いても要領を得ない。 ゾッとした。まるで、猫のようじゃないか。 改めてモニターに映っている中池さんを見ると、頭の上に耳がないか?背後に揺らめくのは尻尾では? やっと田中さんが電話口に出た。 「僕のカールちゃんが突然女の子になって、いやもともと女の子の子猫だったんだけど、いやでも人間のようになって、でも猫みたいで」 田中さんの子猫、カールちゃんは人間になった。モニターの中池さんも猫のようだ。これは一体……? 突然ケータイが鳴った。僕に粉を渡した橋本さんだ。 「あの、西島くん、あの粉を吸ったらしいみんなが猫になっちゃっ……にゃー」 そんな、あの粉は何なんだ。僕も吸ってしまったのか。そういえばズボンの後ろがキツい。触ると尾てい骨の先がふわふわしている。カールちゃんは、ひょっとしたら同僚の安藤さんなのか。そういえばあの悪戯な目は安藤さんにも似てた。モニターの向こうの中池さんは手の甲を舐めて耳周りを擦っている。毛繕いだ。僕はと言うと、なんだか電灯から下がってヒラヒラしている紐が気になって気になって、にゃー。
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