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かつて潰えた隣国の都に龍の子が遺されているとわかったのは、腹の子が外に出る少し前だった。
すまないが、行ってくる。子を頼んだぞ。そう言ってあの人は出かけて行った。
龍はめでたいことの前触れ。それが荒れ果てた町の跡地で見つかったとなれば、良い知らせに違いない。遠く離れたこの村の人びとも知らせに喜び、龍の子の独り立ちを手助けする役目を受けたあの人を讃えた。そして、そんなあの人の妻である私の膨らんだ腹を見ては、旦那は大事な仕事に向かったのだから立派に子を産んで安心させてやるのが妻の仕事だ、と声をかけてくれた。
笑顔の村人たちに、私はもちろん笑顔を返した。
けれど、寂しかった。不安だった。初めての子をひとりで産むことになるのだと、心細かった。あの人の帰りがいつになるかはわからない。
日毎に増していく腹の重みは、生まれくる命の重みなのか、ほとほととふり積もる不安なのか。
吐き出せない思いに息が詰まりそうだった。
すこししてあの人の手紙を受け取ったと、離れた町に住む義母が手伝いに来てくれた。やさしい、やさしい義母だ。
たびたび体調を崩しろくに働けないでいる私を叱ることもなく、家事をこなしご近所にもなじんでいく。
「お向かいの奥さんに、これいただきましたよ」
やわらかい笑顔とともに帰ってきた義母の手には、器に入ったこのあたりの郷土料理。あの人の生まれた町にはなく、私も食べたことのないものだった。
あの人の仕事の関係でこの町に住み、はじめて口にしたときにはふたりしておいしいと笑いあったものだ。
仲良くなった町の住人に作りかたを教わって、いまでは私の数少ない得意料理になっていた。
「あの子から手紙で聞いていたけど、とってもおいしいのでしょう。いただくのが楽しみね」
うれしそうにしている義母に意識して口角をあげて答えながらも、私の胸のうちには悔しいような悲しいような気持ちが渦を巻く。
わかっている。向かいの奥さんが善意でくれたことも、義母が他意なく受け取って喜んでいることも。
どちらもわかっていながら、私の胸のうちにはもやもやとした思いが湧いている。
私が、義母にこの町の味を伝えたかった。あの人の好みに合わせた味付けの料理を作って食べてもらいたかった。
そんな、実現したからといってどうなるものでもない思いを抱えたまま、義母と向かい合って食べた料理は、うまくのどを通らなかった。
腹の重みはますます増していた。
※※※
『お元気ですか。こちらはもうずいぶん暖かくなりましたが、そちらにも春は行きましたか』
書き出しの文になんと続けようか、すこし悩んで筆をとる。
『お義母さんが来てくださって、いろいろと助かっています。ご近所の方ともすぐ仲良くなって』
仲良くなって、あなたの好物のあの料理をいただいてきたの。
そう書きかけて、手を止めた。
そのあとに続く文字は、どうしたって恨みがましいならびになってしまいそうだったから。
出せなくなってしまった手紙を折りたたんで、空き箱にしまう。伝えそびれた思いが積み重なって、空っぽだったはずの箱はずいぶん重い。
私の心を伝えたとして、それであの人が気をもんだところでどうなるというのか。
遠く離れた土地で大切な仕事と向き合うあの人に、いらない心配をかけるべきではないだろう。
苦いため息をいっしょにしまい込んで、あての無い手紙の束に蓋をする。重たい腹をひとつさすり、当たり障りのない近況を知らせるため新しい便箋を手に取った。
『お元気ですか』
ーーーいつ帰って来れますか。
『こちらは変わりありません』
ーーーひとりで入る寝台は冷たいです。
『お腹の子は冬の終わりには生まれるそうですから、名前を考えてあげてください』
ーーー本当はいっしょに考えたかったです。
『大切なお役目、がんばってくださいね』
ーーーさみしいです。
書けない思いは胸の下あたりにほとほとと降り積もり、苦しいほど。これはきっと命の重みと自分に言い聞かせ、記す結びの言葉はどうにも色褪せて見えた。
※※※
手紙の返事が届いたのは、それから半年が経ったころ。
またいつもの義母からの便りだろうと、受け取るために伸ばした手が震えた。何も言わずに頭を下げて去って行く寡黙な配達人に、お礼を伝える余裕もない。
たった一葉きりの紙に書かれていたのは、私に対する心配と謝罪、そして子どもの名前。
「……あなたの名前ですって。ようやく、届け出ができるわね。ようやく……」
続く文字はあと半年ほどで帰れるはずだ、とある。
待ち侘びた帰宅の知らせ。
だというのに喜びが湧いてくるはずの胸は重いばかり。
「帰って、来るのね」
口に出した音が鼓膜を揺らしても、実感はわかない。すべてがひどく希薄に感じられるなか、抱えた我が子の温もりに手を伸ばす。
撫でられてうれしいのか、なんなのか。手足をばたつかせる赤子の口からこぼれる声はどこか遠い。
呼ぶべき名も無いまま今日まで来た赤子は腹から出て三月。
慣れない子育てに慌ただしくしているうちに忘れていた重みが、胸に帰ってきた。忘れていただけで、消えてはくれなかった重み。
きっと腹に育つ命の重みだと言い聞かせていたのに、今さらつきつけられる。
胸を詰まらせる重みに気づかないふりをしたくて、腕のなかの温かな重みを抱きしめた。
いつかあの人が帰ってきたとき、私は妻の顔をできるだろうか。
父親を知らずに育つこの子に「あなたのお父さんよ」と母の顔をできるだろうか。
それとも胸につかえる重みに耐えかねて、聞き分けのない女の顔でわめいてしまうだろうか。
「さみしかったのよ、って……」
たわむれに言葉にした思いはひどくしらじらしいくせに、やけに重たく私の胸に落ちていった。
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