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――ここ、北野洋菓子店には伝説がある。
「いらっしゃいませ。どのケーキが良いかな?」
「お姉ちゃんが良い。このお店の中でお姉ちゃんが一番可愛い!」
佐藤翼くん(六歳)。
誕生日のケーキを買いに来て、手伝いをしていた店主の娘(十四歳)をお持ち帰りしようとした。
町の人々はこの出来事を、北野洋菓子店の大告白と呼ぶ――。
***
「――美菓子、美菓子! 翼くん来たわよ」
母の呼ぶ声に、生クリームを絞ろうとしていた手を止める。
後ろから伸びてきた父の手がぽんと私の肩に乗り、見上げた先には行ってこいという無言の表情。
父に生クリームを奪われて表へ向かう。
私は作る方担当だけど、特定のお客さんのときだけはこうして表に呼び出される。
売り場の方へ行くと店内にいるお客さんは一人だけで、背の高い目立つその人物はこちらに気づくなり目鼻立ちのはっきりとした顔立ちを破顔させた。
眩しい。
外見だけなら大型犬並みに育っているのに、その子犬のような表情が眩しすぎる。
「こんにちは、美菓子さん」
「いらっしゃいませ……。翼くん、卒業式終わってそのまま来たの?」
「うん。美菓子さんに早く会いたくて」
私と交代に奥へ向かった母のはしゃぐ甲高い声が聞こえた気がする。
母よ、もう十六年も続くこのやり取りに、飽きもせずよくはしゃいでいられるな。
そんなことを思いながら視線を上げれば、ケーキが並ぶケースの向こうで、華やかさのあるスーツを着た彼と目が合って、にっこりと微笑まれた。
彼は今日大学の卒業式のはずだ。
本当に大きくなったなぁと感慨深く思うが、私は彼の姉でも親戚でもない。
十六年前、この北野洋菓子店で大告白をした佐藤翼くん(当時六歳)。
その大告白の相手である店主の娘(当時十四歳)が何を隠そう私だ。
あれから十六年。
翼くんは今年大学を卒業する二十二歳になり、当時中学生だった私は三十歳になった。
時の流れは早い。
姉でも親戚でもないけれど、そんな感慨深いことを思ってしまう。
「大学の友達と卒業パーティーとかしないの?」
「夜に少し顔を出すけど、母さんに卒業祝いのケーキ買ってくるよう言われたから」
「毎度ありがとうございます」
並んでいるケーキを吟味する翼くんにお礼を言う。
ここ、北野洋菓子店は祖父の代から続く小さなお店だ。
ケーキや焼き菓子などをそろえており、都会のお店のような華やかさはないけれど、町の人々に誕生日やお祝い事のケーキは北野洋菓子店でと親しんで貰っている。
目の前の彼も、誕生日や入学式、卒業式などの節目にはうちのケーキを買いに来てくれた。
十六年前のあの日も、彼は誕生日ケーキを買いに来ていた。
それがなぜか私をお買い上げしようとして、店内に大笑いと癒しをもたらしてくれた。
ちなみに、私をお買い上げするのは諦めて貰い、子どもに大人気な苺のショートケーキで勘弁して貰った。
その後も翼くんは私が店の手伝いをする日曜日に遊びに来るようになった。
そして来るたびに、熱烈な大告白をしてくれるのだった。
おかげで小さなこの町では私たちのことを知らない人はいない。
そんなやり取りを繰り返して数年後、私は高校を卒業すると製菓の専門学校へ通うために家を出た。
それから他のお店で修業をしたのち実家の洋菓子店を継ぐために戻ってきたとき、すっかり大きくなった中学生の翼くんと再会した。
さすがにもう忘れているだろうと思っていた。
けれど、彼は何も変わらなかった。
さらに高校生になり、私より背が高くなってサッカー部で活躍する人気者になっても。
大学生になり学校や友人たちと遊ぶのに忙しい年頃になっても、お店を閉めるぎりぎりの時間帯に急いで来ることもあったけれど週に一度はやってきた。
そして、必ず私にそれを言う。
「美菓子さん、好きだよ。俺の恋人になってくれない?」
六歳のあの頃の可愛い大告白は、いつからかそんな直接的な言葉に変化していった。
「俺、四月から社会人だよ。もう子どもじゃない。本気で考えて欲しいんだ」
もう何度目か分からない言葉に思わず下を向く。
正直、六歳の男の子の好意なんてすぐになくなるだろうと思っていた。
少なくとも小学校に上がればクラスメートの可愛い子に目が行くし、テレビで同世代のアイドルを見て夢中になるはずだと。
そう高をくくっていたのに。
「あのね、翼くん。私、今年三十なの」
「知ってる」
「何もこんな年上じゃなくて、翼くんには年の近い可愛い子の方が似合うよ」
子どものときの年齢差は大きいけれど大人になったら変わらないと誰かが言っていたけれど、そんなことはない。
十六年たって二十二歳と三十歳でもやっぱり年の差は年の差だ。
特に、私の方が三十歳という事実は大きい。
大学生の女の子のような若々しさも華やかさももうない。
ケーキ作りは朝早くから準備があるので朝から晩まで仕事だし、材料は重い物ばかりなので意外と重労働で腕の筋肉なんて見事なもので、オーブンで火傷だってするし手も綺麗とはいかない。
八歳も年下の子におすすめできるポイントは何一つ見つからなかった。
「俺は、六歳の誕生日に親に連れられてケーキを買いに来たときに、しゃがんで俺と目を合わせながらどのケーキが良いか聞いてくれた美菓子さんが良いんだ」
ケースの上に置いていた手に、翼くんの手が重ねられた。
私の手をすっぽりと覆うような、大きな手。
そんな手に握りしめられた手が熱い。
「ケーキが大好きで、どれが良いか迷っていたら一緒に考えてくれるような、そんな美菓子さんのことがずっと好きだよ」
あのとき私の腰の辺りまでしかなかった小さな男の子は、今は私よりも高くなった背を丸めてカウンター越しに私を覗き込んで見つめてくる。
外見は大分成長したけれど、その視線はあの日と変わらずまっすぐで眩しく、直視できずに思わず反らした。
「……卒業おめでとう! これは私から卒業のお祝いとしてあげる」
用意していた箱を取り出して、彼の手に押しつける。
「美菓子さん、ケーキも嬉しいんだけど返事……」
「それ! 絶対に! 一人で開けてね!」
「え? う、うん、分かった」
「じゃあ、おばさんとおじさんにもよろしく!」
私の鬼気迫る迫力に押されて頷きながら箱を受け取る彼の背をぐいぐい押して、そのまま店の外へと押し出す。
急いで扉を閉めればドアベルがうるさいくらいに鳴り響き、思わず扉に背を預けて大きく息を吐いた。
頑張った。
ケーキにつけるメッセージは書き慣れているはずなのに、たった二文字を書くのに今までにないほど緊張しながらも、頑張った。
「あぁ……もう……、次からどんな顔して会えば良いの……」
顔は火が出そうなくらい熱い。
押さえようとして、先ほど握りしめられた大きな手を思い出して、よけいに熱くなった。
ケーキに書いた私の返事を見て、彼が再び店へと戻ってきたのは、わずか三十分後のことだった――。
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