激怒するマルクスを読む男

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激怒するマルクスを読む男

「エヘッ、エヘヘヘヘ、マ、マルクスの『資本論』は本当に面白いなあ。」  稲垣は大声で独り言を繰り返しています。近くに座っていた女子高校生のグループは車両を移動。女子大生らしい若い女性は、自分が悪いことでもしたようにずっとうつむいたままです。 「エヘッ、エヘヘヘヘ、マルクス様はイエス・キリストよりえらいんだ。マルクス様、バンザーイ、バンザーイ」  稲垣は大声で叫びながら、『資本論』の表紙のマルクスの肖像にディープキスを繰り返し、『ヘーゲル哲学』の表紙のヘーゲルの肖像をペロペロと舐めまわし、キュルケゴールの肖像が印刷された表紙を体中にこすりつけて興奮していました。 「ア~ッ、ア~ッ、ア〜ン。もっと、もっと、もっとキュルケゴール。GO、GO!」  彩良はため息をつきます。一ヶ月くらい前からでしょうか? 車内で度々、この男を見かけるのです。周囲の乗客も迷惑しているから、何とかやめさせたい。だが読書をしているだけと反論されたらそれまでですよね。  近頃、哲学に熱中する女性を「哲女」と呼ぶことはご存知ですよね。そして最近、日本の平和団体が、国際的に大きな賞を受賞し、平和運動が注目されています。  Tシャツのスローガンや座席に積まれた哲学書や文学書は、「哲女」の存在や平和運動への関心が高まっていることと、何か関係があるのでしょうか? 彩良は考え込みました。  やがて列車が新青森駅に到着。再び発車したときには、新しい乗客たちが座席に腰を下ろします。座席に座り損ねた七十代と思しき女性が、困ったように左右を見回しています。  彩良はよい機会だと思い、婦人の手を取って優先席に向かいました。 「すみません。この方が座りますから、本を片付けて頂けませんか」  彩良は穏やかに声をかけました。座席を占拠している本をしまって欲しいと言っただけなのに、稲垣が目をむいて怒り出したのです。 「何だと? バカヤロー」 「すみません。この方が座りますから、本を……」  彩良の言葉を最後まで聞かず、稲垣が立ち上がりました。マルクスの本が通路の床に落ち、マルクスが薄笑いを浮かべて天井を見上げています。稲垣は薄い髪を振り乱し、大声で騒ぎだしました。 「い、今、ど、どういう時代か分かっているのか? と、特定の宗教や団体と結びついた政治の腐敗、平和の危機。お前たちのようにマンガしか読まず、スマホやパソコンで、ゲームやマッチングアブリしかやってないヤツにはそれが分からないんだ」 「すみません。平和の危機や政治の腐敗と、優先席を占領するのと何の関係があるんですか?」 「バカヤロー、オレの言うことが分からんのなら勉強せんか、勉強! 本を読まんか、本を! マルクスを読め、マルクスを! ヘーゲルを読め、ヘーゲルを! キュルケゴールを読め、キュルケゴールを! カントを読め、カントを! 平和の使徒、ムラカミ、オオエを読まんか。お前たちのようなマルクスもヘーゲルもキュルケゴールもカントもムラカミ、オオエも読まん無知無思想無節操な人間がいるから、日本はますますダメになるんだ。反省せんか、反省! 土下座してオレに謝罪せんか、許さんぞ」 「謝罪はしません。優先席を譲ってください」  稲垣が説得に応じる可能性はなさそうです。
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