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マルクスを読む男
「またあの人だ」
彩良は眉をひそめました。
青森駅に向かう列車内。時刻は午後七時二十分過ぎ。夏休みとはいえ、クラブに向かう高校生たちが乗車していますが、満員というほどではありません。
彩良は公務員の自覚として、よほど車内がすいていなければ座席に座らないようにしていました。必ず直立不動で立ち、吊革をしっかりと握りしめています。
彩良の視線の先には、リンゴ体型の男がいました。年齢は四十代でしょうか。
薄い髪を不自然に頭になでつけ金髪に染めています。そして黄色の原色のTシャツ。どう考えても考えなくても、似合っているとはいえません。Tシャツは日替わりで、「平和」とか「核兵器反対」などのスローガンが、読みやすいとは思えない手書きで書かれていました。
彩良はこの男の名前を知っています。いつか名札を首から下げていたんです。
「戦争に反対し平和を守る会事務局 稲垣昭太郎」
と書いてありました。
「稲垣昭太郎、イナガキショウタロウか」
彩良は、思わず名前を口にしてしまったことを覚えています。わざわざ名札をぶら下げていたのは、自分をアピールするためでしょうか。
今朝も稲垣の行動は同じです。優先席に陣取ると、手にしたトートバッグからおもむろに本を取り出します。
表紙に著者、カール・マルクスの肖像が印刷されたカール・マルクス『資本論』全三巻。そのほか、表紙にヘーゲルの肖像が印刷された『ヘーゲル哲学』、表紙にキュルケゴールの肖像が印刷された『現代の批判』、そして表紙にカントの肖像が印刷された『純粋理性批判』。日本の作家、ムラカミとオオエの作品……。
彩良も全員の名前くらいは知っていますが、たぶん一生涯関わり合いにならないはずの人たちです。本当は日下くんのレクチャーのおかげで、高校時代の『倫理』『現代文』の授業を少しだけ思い出していたのです。
稲垣は優先席の半分に、トートバッグの中の本を山積みに並べ、ゆっくりと『資本論』を読み始めました。
↓奥羽本線(フリー写真)
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