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ある日、目の前に紙様が降臨した。
それは雷様が荒れ狂う空の下、突然の大雨に見舞われ病院の近くにある大きな木の下に一時避難したときだった。
――ピカッ!
「きゃあっ」
荒々しい稲光に目を瞑り、耳を押さえて身をかがめた。大きな音がお腹の底を震わすまでの時間をこわごわ数える。
いち、にい、さん、しい、ごお。
時間がかかればそれだけ遠い。遠くにいる雷様は恐くない。しかし、待てど暮らせどゴロゴロドカンと聞こえてこなかった。時間にして三十秒くらい経っただろうか。あれ、おかしいな、と思いそろそろと目を開けてみると、目の前に浮かんでいたのが紙様だった。
「我はカミサマである」
ふわりぷかぷか浮かぶ、手乗りサイズの仙人みたいな人が何の脈絡もなくそう言うので、もしかしたら自分は雷様に撃たれて死んでしまったのかもしれないと思うほかなかった。
「神様……、あたし、もしかして……」
「いんや違う」
「え?」
死んでないってこと? 神様には心の声が聞こえるのかな。
「ペーパーのほうの、じゃ」
「は?」
「ペーパーの紙じゃ」
「ペーパー……、の?」
「紙様じゃ」
「紙、様」
「いかにも」
満足そうにうむうむと頷く自称紙様。そう言われてみれば、紙様は文庫本サイズの紙の束の上にあぐらをかいて浮かんでいる。例えばアラジンの魔法の絨毯みたいな、いやでも、そんなキラキラしたものでもなく、言ってみれば空飛ぶ座布団みたいな、何重にも重なった妖怪一反もめんに乗った福禄寿みたいな。
周囲は相変わらず激しい雨が地面を打ち付けている。それなのに不思議と濡れなかった。紙様は濡れると力が出なくなるのかもしれない。だから目に見えないバリアが張ってあるのかもしれない。なんとなくほんわか温かいような気もするし。
「……それで、紙様があたしに何か用?」
「そうじゃ、そうじゃ。おぬしの運命を書くのに紙が切れてしまってのう。紙をおくれ」
紙様が紙を所望している。
しかも、あたしの運命を書くために、と。
これは――……。
「……――どういう状況?」
「ことりちゃん!」
振り返ると血相を変えた看護師が雨の中を走ってくるのが見えた。
しまった。見つかってしまった。
「ことりちゃん!」
逃げだそうかと思ったけれど、担当看護師のユキちゃんがびしょ濡れになりながら走ってくるのでその気は消え失せた。
気がつけば、ついさっきまで目の前に浮いていた紙様も、荒れ狂っていた雷様もどこかへ行ってしまっていた。
「ことりちゃんっ……はあ、か、体に障るから病室もどろ」
大きな木の下へやって来たユキちゃんは、息も切れ切れに心配そうにあたしを覗き込む。反射的に顔を逸らした。
「体冷えたでしょう」
彼女の、ショートボブの毛先が束になって、そこからポタポタと雨水が落ちていくのを横目で見ていたら喉の奥が苦くなった。
腕を振りすぎて差してた傘が本来の役目を果たせてなくてそっちこそ風邪引くじゃん。
脱走癖のあるあたしのことなんて放っておけばいいのに、怒りもしないでただ小刻みに震える手で持つ傘をこちらに差し出す彼女に、罪悪感だけが猛スピードで巨大な化け物に変貌していく。
そんなことをもう何回繰り返しただろう。
「でも、思ったより濡れてないね。いい雨宿り先があって良かった。ボクちゃん、ことりちゃんを守ってくれてありがとう」
「……ボクちゃん?」
「あ――……、木に名前つけるなんて変だよね。老木のボクちゃん。私が勝手にそう呼んでるだけなんだけど――仕事で失敗したときとか、落ち込んだ時よくここへ来てたの。誰にも言えないからボクちゃんに愚痴ったりぼやいたり。ふふ。傍から見たら怪しい人みたいだけどね。でも不思議と元気になれたのよ。よし、また頑張ろうって思えたの。ボクちゃんが嫌なこととか全部吸い取ってくれたみたいで。だから私はこの場所が大好きなの……あ、このことは他の人には内緒ね」
人差し指を口元にあててにっこり笑う彼女に釣られて笑いそうになって咄嗟に真顔を作る。
「仕事、きついなら辞めたら?」
「あら、心配してくれるの? 大丈夫、そりゃきつい時もあるけど、元気になって退院していく患者さんを見る度に、こんなにやり甲斐のある仕事はないって思ってる」
「あ、そ。……帰る」
「あ、うん。待って、濡れるから傘の中に入って」
「なんで傘一本しかないの」
「ごめんね、慌ててたものだから。もうちょっとこっちに寄って寄って」
そんなに傘を傾けたらユキちゃんがまた濡れるじゃん。肩に回された腕からじんわり温もりが伝わってきて気持ちが落ちていく。
ごめんね――違う、だったらあたしが抜け出さなければいいことだ。
ありがとう――これも違う。仕事だから追い掛けてきただけかもしれないし。
やっぱり、自分の気持ちをカタチにして口から出すことは難解で苦手だ。
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