これは、いつかの。

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──「許さないでほしい。この世界の誰もが俺の悪行を赦し濯いだ心を尊んだとて、あなただけは俺を許さないでほしい。その心に根付いた嫌悪、怒り、憎しみ。それすらも濯いでしまったならば、『俺』の存在価値が無くなってしまうのだから」。 あの本はたしかそんな書き出しで始まっていた。 めくればそこには、悪辣の限りを尽くす敵を成敗する主人公が描かれていたはずだ。躍る筆致は善性と優しさに満ち満ちていて、結末のくだりになれば主人公は斬り伏せられた敵にすら手を伸ばそうとした記憶がある。 美しく完成された心。なにものにも揺るがされることのない、見目も麗しく整えられた自我。本を読むさなか、子供心に「世の中がこんなひとばかりなら、みんなケンカしないのに」と呟いた覚えもある。 悪辣の権化は虫の息になりながらも差し伸べられた手を跳ね除けなかった。ただ、その手を取ろうともしなかった。 手を取らなかったかわりに彼は先の言葉を繰り返し言っていた。表情はどんな風に描かれていたか、声は、瞳は、どう描かれていただろうか。大まかな筋書きとその言葉以外は、記憶に靄がかかったように曖昧だ。細部が思い出せない。 何を思って彼は、あんな言葉を言っていたのだろう。 その本のタイトルも作者も、登場人物の名前も、何も思い出せない。それでも悪が正義に吐き捨てたその言葉だけは記憶の波に攫われずに残っていた。 ただ、時を経て言葉を解する力をつけ。人の波を、紙面の砂を、電子の海を渡り。思うようになったことがある──それはたとえば悪辣が人の形を象るにしても、そうでないにしても。何より怖いのは「人の記憶に残らないこと」だと言えるのではないかということだ。 人を狂わす怪異が後世まで語り継がれるのは、記憶に残る名を授けられているから。悪行を働く人間がいつまでも忘れられないのは、その肉体が斃れても罪が名前という形を持ち人々の心に深く根ざすから。 『あなただけは俺を赦さないでほしい』 ──主人公が悪辣の権化へ最期に掛けた言葉も、もう覚えていない。ただ、ただ。「濯いだ心すらも赦すな」という彼の血を吐くような呟きだけは、いまでも心に残っている。 ああ、 誰かの物語にとっては、俺も、あるいは。
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