See you next week

2/6
前へ
/6ページ
次へ
 その日、十八歳の茂夫は、放課後に近所にある公園のベンチにすわり、文庫本を読んでいた。けだるい夏の風が吹く、七月のことだった。  午後、四時過ぎ。目のまえのおおきなクスノキが見おろす広場には、茂夫のほかにはだれもいない。  高台にあるこの公園は、いつもひとけのないさみしい公園だった。きこえるのは、雑木林の木々が揺れる、かわいた自然の音だけ。だから、読書をするには打ってつけの場所なのだ。  ふと、視界のすみに人影があるのに気がついた。  本のページから目を上げると、目のまえに紺のセーラー服を着たおさげ髪の女の子が立っている。  ……だれだろう。同い年ぐらいに見えたが、顔を見るかぎり知り合いではなさそうだった。背中で組んだ両手には、褐色の学生カバンが握られている。 「こんにちは」と、彼女は言った。「なにを読んでるの?」 「どうして?」とか、「だれ?」とかきこうとしたが、彼女のすこし幼さが残った琥珀色の瞳に見つめられて、茂夫の警戒心はすぐに消えてしまった。茂夫は、持っていた文庫本の表紙を彼女に向ける。  彼女は表紙をのぞきこむように見ると、「ああ」というため息のような声をだした。 「わたし、こういうのって苦手」 「苦手って?」  茂夫は、彼女に向けていた文庫本を引っこめながらきいた。 「殺人事件とか、探偵とか、そういうもののことよ。そういうものは、文学性のない、安っぽいこじつけの論理に酔いたい人たちが読むものだって、うちの母が言っていたわ」  いきなりそんなことを言われて、すこしムッとした。しかし、彼女からは悪意というよりも、子どもが友人を茶化すような、いたずら心のようなものを感じた。 「きみは本を読むの?」  もしかしたら、嫌味にきこえたかもしれない。  彼女は、「読むわ」と答えてから、カバンをからだのまえで抱くように持ちながら、茂夫のとなりに腰をおろした。  彼女は治子(ハルコ)といった。祖父母の家にいく通り道で、よくこの公園をつかうらしい。それにしては、彼女を見かけたことがない。本を読むことに集中しすぎて、外の世界に目を向けられていなかったからかもしれない。 「わたしが読むのはだいたいが文学作品。高尚な雰囲気の、どこか知的さを感じさせるようなあれね……というよりも、母がそれしか読ませてくれないの」  ハル子は、ひざのうえのカバンから一冊の文庫本を取りだした。ほこりが付いていたのか、それを三回ほど手でパッパッとはらったあと、茂夫に渡した。  それは、茂夫もよく知っている作家の恋愛小説だった。 「読んだことはある?」 「ないな。この作家のほかの作品なら読んだことがあるけど、これは読まなかった」 「恋愛ものは苦手?」 「そういうことではないけど……タイミングかな」 「それが合えば、読むっていうこと?」  茂夫は意味もなく、ハル子の文庫本の表と裏を交互に見ながら、「たぶんね」と曖昧な返事をした。  もうすぐ五時になろうとしている。家では、そろそろ母が夕飯の支度に取りかかろうとする時間だ。そういえば、ハル子は祖父母に会いにいった帰りのようだが、こんなところで道草をくっていて平気なのだろうか。茂夫は、それとなくハル子にたずねようとすると、それよりもさきに、ハル子が話しだした。 「ねぇ、もしよかったらでいいんだけど」と、右手で自分の前髪をいじりながら、「あなたがさっき読んでいた小説を……あなたが読みおわってからでいいから、わたしに貸してくれないかしら」 「かまわないけど」と言ってから、茂夫はベンチの横に置いた自分の文庫本を手にとって、ハル子のほうに差しだした。 「あなたが読みおわってからでいいのよ」と、自分の胸のまえで両手をふりながら、ハル子は言った。 「もう何回か読んでるんだ。もうきみにあげちゃったっていいぐらいだよ」 「そうなの?」 「うん」  ハル子は、「どうも、ありがとう」と言って受けとった。そのとき、すこしだけ彼女の小指が、茂夫の人差し指に触れた。 「じゃあかわりに、あなたにはその本を貸してあげる」と、茂夫のもう片方の手に持った自分の本を指さして、ハル子が言った。「いいタイミングになるでしょ?」  茂夫は、制服の白シャツをパタパタやりながら、「たしかにね」と短く答えてから、「でもさ。いつこれをきみにかえせばいいかな。おれはきみの家も知らないし、学校だって知らないよ」 「そんなの簡単よ」と彼女は言った。「一週間後のおなじ時間に、またここに来て。一週間もあれば、わたしでも読みおわってるはずだから」 七月の夜を知らせるように、木々の梢がざわめきはじめた。しかし、まだあたりは夜になるには明るすぎて、すこし霞んだ空には、重たそうな白い雲がどこかべつの場所にいこうと、ゆっくりとすすんでいる。  ハル子はベンチから立ち上がると、かるく伸びをした。それから、自分のカバンを肩に掛けると、「それじゃあね」と言って、走っていった。  茂夫は、「うん、また」と言った気がしたが、おそらく彼女にはきこえていなかった。  そんな茂夫をバカにしたように、クスノキが、ざわざわと揺らめいた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加