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ハル子が来なくなってからも、茂夫は週に一度、あの高台の公園のベンチで彼女を待っていた。
ときどき、こどもたちが目のまえの広場で遊んでいることがあった。このひとけのないしずかな公園を、こどもたちが走りまわっている。ここは、しばらくすると、本なんか読んでいられなくなる。茂夫はそう思った。
二ヶ月がすぎた頃。秋もおわりが近づいていた。
放課後、一週間ぶりに公園に来ると、広場は、まるでおおきなカーペットに、黄色いインクをこぼしたようにまっ黄色だった。園内のイチョウの木は、広場を囲むように並んでいて、枯葉がながれるように落ちてくる。
茂夫はベンチにすわり、地面から一枚のイチョウを拾った。手のひらのような、よくあるイチョウの葉。しかし、だれかに踏まれたのか、鳥にでも突っつかれたのか、ちょうど真ん中がやぶれて、切れ目が空いている。今日は、広場に茂夫のほかにはだれもいない。
茂夫はその枯葉を空に向けて、片方の目をつむる。切れ目の先には、いつもの薄紫色のさみしい夕焼けだけ。秋のつめたい北風が吹くたびに、枯葉がふるえたように小刻みにゆれる。茂夫は切れ目をのぞいたまま、枯葉をゆっくりしたにおろして、目線の高さまでもってくる。そのとき、切れ目のさきにうつったものを見て、茂夫の世界は止まった。
そこに、ハル子がいた。
片手にバックをもって、もう片方の手で茂夫に手を振っている。茂夫は立ちあがって、ハル子のところまでいった。枯葉は落としたか、とんでいったか、もう手元にはなかった。
「こんにちは」と、ハル子は言った。「ごめんなさい、ずいぶん久しぶりになったわね」
茂夫は冷静さをたもちつつ言った。
「そうでもない。夏だったのが、秋になっただけだよ」
ハル子はセーラー服ではなく、白いブラウスに黒のスカートという出で立ちだった。髪もおさげではなく、うしろでひとつにまとめていた。これまで気にしなかったが、ハル子の目線は、百七十センチほどの茂夫とあまりかわらなかった。彼女はかなり背が高かったらしい。
ふたりはベンチにすわって、あれこれと話した。
「ほんとうにごめんなさい。兄があなたにひどいことをして……」
あの男は、ハル子の兄弟だった。茂夫はなんとなく感づいてはいたが、もうどうでもよくなっていた。あのときの傷も、もうきえてしまっていた。
「べつに、気にしてないよ。もう治ったしね」
それでもハル子は、「ほんとに、だいじょうぶ?」と、手のひらで頬をやさしくさすってくれた。
照れくさくなった茂夫は、「あ、そうだ」と言って自分のカバンのなかをかき回しはじめた。
「これ、もう返せないかと思ってさ。心配してたんだ」と、一冊の文庫本をハル子に渡した。それは、九月にハル子に借りた文庫本だった。
「じつはわたし、あなたの本もってこなかったの」
「忘れちゃった?」
ハル子はかぶりをふった。
「なんだかね、もらっちゃおうかなって思ってね」と、ハル子は、まるで少女のようないたずらっぽい笑みをうかべた。
べつに、彼女になら本の一冊や二冊あげたってかまわなかった。空の色はまだ薄い紫色だが、もうあと数分のうちに漆黒の夜になる。
「そのかわりにね」と、ハル子は自分の赤いハンドバッグから、透明なカバーのかかった文庫本を取りだした。「これを、あなたに」
その本は、茂夫にも見おぼえがあった。それは、いちばんはじめに、ハル子が貸してくれた文庫本だった。
「それなら、もう読んだよ」
「知ってるわ」ハル子は言った。「あなたに持っていてほしいのよ。もう二度と読まなくてもいいの」
意味がよくわからなかったが、茂夫は受けとった。
「いつ返したらいいかな」
「だから、それはあなたにあげるのよ。もう返さなくていいの」
ますますよくわからなかったが、茂夫はそれよりもハル子にききたいことがあった。
「結局、話っていうのはなんだったの?」
「なんの話?」ハル子は、かるく小首をかしげて言った。
「ほら、いつだかきみが言ってたじゃないか」
しらを切るハル子に、しばらくねばっては見たが彼女は答えなかった。茂夫はひざのうえに鞄をおいて、なかをすこし整理してから、ハル子の文庫本をしまった。
「知りたいの?」と、ハル子が茂夫の顔をしたからのぞき込むようにしてきいた。
「そりゃね、ずっと心配してたからさ」
じゃあ、とハル子は言ってかるく腰をあげた。なにかを話しだすのかと思いきや、いきなり茂夫の膝のうえの鞄を奪いとり、走りだした。
急なことにおどろいて、茂夫はすぐには追いつけなかった。彼女はクスノキの裏にかくれながら、茂夫が追いかけてくるのをまっていた。
「しげちゃん、はやく」と、急かすように茂夫を呼んだ。
茂夫が追いつくと、ハル子はまたクスノキの裏にまわった。キャーキャーと声をあげながら逃げるハル子を、茂夫は追いかけた。イチョウの葉が、すこしつめたくなった秋の風にのって、宙を舞っている。空には赤い夕焼けが、いつまでもクスノキを照らしていた。
そこには、いつか茂夫が見たこどもたちのような、無邪気で、純粋な、若いふたりがいた。
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