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どちらともなく、繋いだ手は離された。
亨は暫くの間、ぼうっと戸のほうを見つめていたがおもむろに「……酔った」と右手で額を押さえた。
彼が電話を掛けてから数分で車が止まる音がし、聞き取り難いが声が聞こえ始めた。悲鳴や怒号の端々が激しい雨音と重たい静寂の中に響く。耳を塞ぎたくなった頃に、車の走行音に攫われて遠ざかって行った。悲痛な女性の声だった。本当に大丈夫なのだろうか。ゆえの心の中の靄は晴れない。しかしそれは亨も同じのようで、頑なに窓に背を向けて三角座りをしたまま一点を見つめてぼんやりしていた。隣に座っていたいたゆえが身動ぎをし、くっついていた頭を剥がすと、亨は不安げに彼女のほうに視線を転じた。
「任せた方が、きっとどうにかしてくれますよね」
ゆえは亨を安心させるように口元を緩めた。このような事態に彼が頼る人物なのだ。きっと泣いている彼女のことを温かい場所に連れて行って慰めてくれるに違いない。ゆえは祈りや願望に似た感情を込めて言った。亨も泣きそうな顔で頷いた。
ゆえがゆっくりと立ち上がる。テーブルを避け、部屋の端に畳んであった布団を敷き毛布などを整えると「うちには暖房器具が無いので」とそちらに手を向けた。
「もし嫌でなければ入っていて下さい」
金銭的に困らない生活をしているであろう男に、自分が試用している布団で暖を取れなど失礼も甚だしいことだとゆえは自覚していたが、ここに滞在している以上、気を使うとしたらこれくらいしかできないのである。亨も瞠目して脇に敷かれた布団を見ていた。未確認生命体を発見した顔をしている。
後悔して、寒いので早く帰ったほうがいいですよ、と言い直そうとした瞬間に、彼は掛け布団をそっと上げて、土の中を掘り進めるモグラのようにその中に入っていった。そしてひょっこりと顔を出す。
「あったかい」
呟いた亨を見て、随分寒かったんだなとゆえは反省した。
「頭が痛い」
吊り下げられた照明から逃れるように腕で目を覆い、風邪を引いた子どものように話す彼は甘えているようでちょとだけおかしかった。
「酔い冷ましになるようなものを持ってきますのでお待ちくださいね」
ゆえが布団の側から離れようとすると、唐突に片足が動かなくなった。見るとにょっきりと伸ばされた手が足首を掴んでいる。
「どこに行くんだ」
緊張が解れて気が抜けたのか、とろんと虚ろになった瞳が彼女を見上げる。
「台所に……」
「すぐに戻ってきて」
「はい、すぐに」
微笑んで返すと足枷のようになっていたものが外された。
布団を離れながら、ゆえは一つ息を吐く。
病棟の王子が弱っている上に子どものように甘えてくる。酔っているとはいえそんな姿を見てもいいのだろうか。何人もいる王子のファンの子たちに妬かれないだろうか。いやしかし三十路といういい年の女など、三つも年下の、しかもこの世の全てを手に入れているような男が何とも思うわけも無いだろうし、羨ましがられることも起こらないだろうし、しかしすでにこの状況が何というか自分には心臓に悪いというか刺激が強いというか……。冷蔵庫の中に頭をつっこんで考えていると、ピーピーと音が鳴った。我に返り冷蔵庫を開け直し、必要なものを取り出す。
亨のもとへ戻ると、彼は携帯を弄っていた。
「ホテル、か」
「ホテルですか?」
ゆえがテーブルに盆を置くと、壁を向いていた彼がのそのそと上半身を起こした。
「どうにかなったみたい。多分もう心配ない」
泣いていた彼女のことだろう。ゆえも亨と同じタイミングで安堵の息を吐いた。
「よかったです。……これ、はちみつレモンのジュースなんですけど、酔いの症状に効くので、苦手でなければ飲んでみて下さい」
ゆえが盆に目線を向けると、亨は氷で冷やされたそれを取って躊躇なく口に含んだ。半分ほども一気に飲み、「うまい」と言ってもう半分も飲み干した。
「はちみつの甘さとレモンの酸味が体に染みる。味も濃過ぎず甘ったるくないところがいい」
「それは、よかったです」
「ここに来れば作ってもらえるのかな」
「あ、はい。お望みとあれば」
「うむ」
まるで王様と召使いの会話だが、こういうやりとりが普段通りで安心した。王子とはこういう感じでいいのだ。ゆえが含み笑いをすると、彼はグラスを置いてゆえの手を引いた。
衝撃は敷き布団に吸収された。
仰向けになったゆえの上に覆いかぶさった亨がやけに神妙は表情をしている。彼の睫毛の長さも、陶器のような肌も、茶色みの強い瞳もよく見える。顔の両脇に置かれた腕が囲いとなって、亨の顔に影が出来ている。
「あのさ」
囲いの中で、亨の声は低く響いた。
「深夜に男を部屋に上げるっていうのは良くない。……こういうことになるから」
ゆえが言われたことを理解できないでいると、亨は彼女の顔に自分の唇を近付けた。アルコールとはちみつレモンの香りが近付いた。
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