1.なかよくなりたい

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 頭がぐらりと揺れ、膝から力が抜けた。  バランスを保てなくなった体は容易に床に崩れ落ち、下敷きになった左腕が強い痛みを生んだ。目の前が闇に包まれ、浮遊感と眩暈が押し寄せてくる。傍で彼が何か言っている。しかし耳鳴りがそれを掻き消して聞き取ることができない。右手があたたかい。  ぬくもりの存在を確かめられないまま、ゆえは蝋燭の火を吹き消すように意識を手放した。  午前三時三十分。休憩室を出た途端、いくらか落ち着いていたはずの眩暈に襲われ、ゆえは壁に手をついた。俯き、体の軸がぶれるような気持ち悪さが通り過ぎるのを待つ。寝静まった病棟に、フットライトの暖色がぼんやりと浮かんでいる。ゆっくりと顔を上げると、薄暗闇の輪郭がはっきりと見えるようになった。  月経中はいつも貧血に悩まされる。学生時代からずっとそうなのだから慣れてはいるのだが、何度経験しても不快感を受け入れることはできない。特に夜勤と被ったときは他のスタッフと勤務を替えてもらうことも難しく、体調不良のまま八時間以上を過ごすことになる。今回は出血量に比例して、貧血の症状も特にひどく出ていた。  ゆえは動悸のする胸を抑えつつ、一歩一歩踏みしめるように詰め所へ戻った。幸いにも患者の状態は安定していて、忙しなくなる朝食の前までは定期の処置と介助だけで済んだ。  控室に籠っていた当直医の白川亨は朝の回診時、白衣の大群の真ん中あたりで精悍な顔をしていた。最近少しだけ交流があったが、よもぎ餅とホッカイロの件以来、連絡事項以外話す機会は無い。彼は回診が終わってからは詰め所で他の医師と談笑していたが、またどこかへ行ってしまった。そのまま日勤の医師に交代するのだろう。 「ゆえ先輩本当に顔色悪いですよ」  隣りでパソコンに向かい、電子カルテを打っていた後輩の藍澤沙彩(あいざわさあや)が眉を顰めてゆえを覗き込んだ。 「帰り送りましょうか?」  沙彩が尋ねながら首を傾けると、前下がりになったま黒髪がさらさら揺れる。ゆえは微笑んで「大丈夫、ちゃんと帰れるよ」と穏やかな声色で返した。 「せめてタクシーで帰って下さいね」 「うん、また気分が悪くなったらそうする」 「先輩の大丈夫は信用できない」 「大丈夫、大丈夫」 「それですよ、それ」  沙彩はじっとりと半分目を閉じて、唇を尖らせた。  三十路の自分より三つ年下の彼女はとてもしっかりしている。勤務年数を重ねるごとに成長し、今ではゆえのほうが世話になっているくらいだ。判断も的確で努力も出来る。普段はクールだが、先輩看護師であるゆえには甘えたり弱音を吐くこともある。背が小さく猫のように目が大きい外見も可愛らしい。そういえば亨と同い年ということで、たまに喋っているのを見かける。仲が良いのかもしれない。  ゆえを誘うことをしぶしぶ諦め、先に更衣室に向かった沙彩に手を振り、ゆえは勤務中に不具合が出ていた輸液ポンプをこっそり臨床工学技士の管理する収納棚まで持って行くことにした。日勤のスタッフに任せてもいいのだが、一つ下の階に運ぶだけなので大した手間でも無い。  両手で抱えるように持ち、階段を下りた。やはりまだ雲を踏んでいる感じがする。  五階はCCU(心臓血管外科集中治療室)と手術室があり、その間の廊下に医療機器を収納している棚がある。六段ある棚のうち、珍しく下の五段がみっちりと埋まっており、CCU内でも輸液ポンプを大量に使う必要があるような重症患者が多くはないことを察する。  ゆえは自分の身長より三十センチほど上にある棚板に輸液ポンプを持ち上げようとして動きを止めた。見上げただけで目の前に火花が散った。ちかちかと光が明滅している。暫く下を向き、深呼吸を繰り返す。  背後にあるエレベーターが開く音がした。 「それ、片付けるの?」  明るい髪色の整った顔立ち、白衣が様になる長身の男――亨がエレベーターを下りて一瞬立ち止まった。佇んだままのゆえを不審に思ったのか、そのまま背中に近付いてくる。ちらと目線を向けただけのゆえに気付いたか否か、亨は彼女の腕から輸液ポンプを取り上げ、体が触れ合いそうな距離で棚へと腕を伸ばした。後頭部に亨の息遣いを感じる。濃紺のスクラブが結い上げた髪に触れた、そのとき。  視界が暗転した。硬く冷たい床に倒れた体が打ち付けられる。  自分か世界かどちらもか、ぐるぐる回っている。  無意識に右手が縋れるものを探していた。  何かに触れたと思った瞬間、強烈な眠気がゆえを包んだ。
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