1.なかよくなりたい

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「大丈夫?」  頭上から小さな声がして、重い瞼を開けば心配そうな顔をした主任が腰を曲げてゆえを見下ろしていた。見慣れたインテリアは休憩室のもので間違いない。硬いソファーの感触に身を捩り、「ご迷惑を掛けてすみません」と軽く頭を持ち上げた。倒れたことは何となく分かっていた。どうやってここに来たのかは覚えていないが、誰かが担架でも持ってきてくれたのかもしれない。 「いいの、いいの。ずっと具合悪かったんでしょ? 一人で帰れる? タクシー呼ぼうか?」  上半身を起こそうとすると、主任が背を支えてくれた。まだ頭がくらくらするが、暫く姿勢を替えなければ落ち着いてくる。  「ゆっくり歩いて帰ります。駄目そうだったらその時にタクシーを使うので」 「黒野さんは我慢強いというか何というか……よねえ」 「本当に大丈夫です。では、お疲れさまでした」  ソファーを下りテーブルを避けてドアへ向かう。部屋を出た後に振り返り主任に向かって会釈をすると、彼女はマスクの上の双眸を緩め、「後で白川先生にお礼を言ったほうがいいかも」とからかうような声色で言った。 「五階で倒れたゆえさんを運んできたの白川先生だから。しかもね……」  主任がわざと間を作る。ゆえはその先の言葉が気になって仕方なかった。 「お姫様抱っこだったのよ~!まるで本物の王子様みたいって見かけた子たちがはしゃいじゃってね!覚えてないなんてもったいないわね~」  うふふと笑って主任はゆえの後ろにつき、休憩室を出るように促した。一緒に廊下に出て、「じゃあね、しっかり休みなさいね」と彼女はスキップしそうな足取りで詰め所の手前の病室に入っていく。  ゆえは、運んでくれたのが白川だと知り申し訳ない気持ちでいっぱいになった。さぞ重かっただろう。迷惑を掛けてしまった。看護師のくせに体調管理も出来ないのかと立腹しているかもしれない。次に会ったとき、どんな顔をして何を言えばいいだろう。  ぐるぐると考えているうちにまた具合が悪くなりそうだったので、悩み事の答えを出すのは保留にしてエレベーターに乗った。  従業員の出入口があるエレベーターホールに出ると、自動ドアの隅に人影があった。 「あ……」  思わず声が出た。その声に、外を眺めていた亨が振り向く。 「体調落ち着いた?」  話し掛けられ、ゆえは緊張しながらも彼の前に立つ。 「はい、だいぶ」 「今帰り?」 「はい」 「何で帰るの?」  歩いて、とゆえが返すと亨は眉根を寄せて口角をひくつかせた。 「そんな体で歩いて帰るなんてどうかしてる。タクシーも呼ばないつもりなら送ってあげるからここで待ってな」 「いえ、あの……」 「外じゃなく、ここで待ってて」  言うと亨は大股歩きで外へ出て行った。残されたゆえは、混乱しながら窓に寄り、ガラス越しに道路に貼りついたもみじの葉を見つめる。亨とこんなに喋る機会があるなんて思わなかった。畳みかけるように質問されたからお礼も言えなかった。「送ってあげる」ということは亨の車だろうか。また思考がぐるぐるする。ガラスを通して入ってくる日差しが瞳を刺す。いつも以上に眩しく感じられる。  そうしている間に、目の前の道路に光沢のある黒色のSUVが停まった。助手席側の窓が開けられ、亨が手招きをする。ゆえは急いで向かい、怯えながら車のフロントドアを開けた。 「急いで来たから片付けられなかった。そこら辺の物、適当に避けて座って」  目の前の座席には、大人の頭くらいの大きさのうさぎのぬいぐるみ、ヘアスプレー、桃色の瓶の香水が無造作に置かれており、ダッシュボードには女性もののデザインの腕時計が乗っかっていた。  何をどこにどうすれば……、とゆえが困っていると亨が座席にあったものを次々に後部座席に投げていく。 「どうぞ」 「……すみません。お邪魔します」 「で、家はどこ?」  ゆえが住んでいるアパートまでの道のりを説明すると、亨はアクセルを分でハンドルを回した。  シトラス系の爽やかな香りが車内に広がっている。  車内の様子を見て、若い男の子という感じだとゆえは思った。外見をきれいに整え、香りにまで気を遣い、親しい女の子と遊びに行く。亨は人生を謳歌しているのだろうと思った。  どんどん景色が変わっていく。ぼんやりと外を見ていた。しかしゆえは思い出した、主任の言葉を。 「白川先生」 「はい」 「私を休憩室まで運んで下さりありがとうございました」  亨は運転をしているからゆえのほうを見てはいないが、ゆえは頭を下げた。 「当たり前のことだろ」 「そうかもしれませんが……助かりました」 「辛くなったら言えばいいのに」 「はあ、そうですよね」 「ゆえさんは気が弱そうだからな。もう少し堂々としてなよ。そしてもっと我儘を言えばいい」  はあ、と俯いて、すぐにぎょっとして亨のほうに顔を向けた。亨もゆえを見たが首を傾げただけだった。  看護師から下の名前で呼ばれることはあっても、医師から呼ばれたことはなかった。しかも相手は若くて美しく有能な王子だ。違和感が胸でざわざわと音を立てる。しかし指摘するのもおかしなことだと思い、ゆえは何でもないふうを装うことにした。動けば二の腕が触れそうな距離に彼がいることも、意識し始めると顔に熱が集中する。 「顔赤いよ、大丈夫?」 「……ちょっと、恥ずかしかったことを思い出してしまって」 「あ、そう」  誤魔化せただろうか。  亨の反応からはよく分からない。  車はどんどん住処に近付いていく 「無人駅を越えて、スーパーを過ぎて、あの辺?」  亨の視線が道路から奥まったところにある二階建てのアパートを指す。 「あ、そうです」  彼は徐行し、蔓の巻き付いた築五十年の古びたアパートの側に車を駐車させた。  車を下りた亨はアパ―トの外観を隅から隅まで見て、顔を顰めた。 「古。看護師の給料ってほんと低いんだな」 「え……と。私が好きで住んでいるので、他の方はもっと素敵なおうちをお持ちだと思いますよ」  ふうん、と目を細めて亨は開けっ放しだったフロントドアに手を掛け、「じゃ、お大事に」と素っ気なく言った。  亨が行ってしまう。  ゆえは動揺しながら、深く思案する間もなく車に体を収めようとする亨の腕を掴んだ。 「お茶を飲んで行きませんか?」 「お礼」という言葉がずっとゆえの頭を旋廻していた。 「大したものは出せませんけど……勤務後ですし、少しだけでも休んでいって下さい」  ゆえなりに勇気を振り絞った誘いに対し、亨は呆然としていた。真顔でじっとゆえの顔を見つめ中途半端な姿勢で固まっている。ゆえにはその間が恐ろしかった。誘いを取り下げる言葉が喉までせり上がっている。  亨がフロントドアを閉め、姿勢を正す。  蒼穹を背景に彼の栗色の髪が風に揺れていた。 「そういうのは、仲のいい奴に言う台詞だろ」 「え?」 「いや……俺の考えすぎだ。何でもない。じゃあ一杯だけ頂いていくよ」  亨はスーパーのあるほうを見ながら紡いだ。ゆえは安堵して、彼を二階の自室へ案内する。「この階段崩れないよな」「底抜けそう」「手すり落ちそう」と亨があちこちを観察しながら呟くのが、ゆえには恥ずかしくもあり微笑ましくもあった。  一番奥の部屋の玄関ドアに鍵を差す。  隣に佇む亨の喉仏が、嚥下により上下したのが見えた。
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