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玄関から部屋に繋がる廊下の左側には台所が、右側には二つのドアがる。玄関側にあるドアはトイレで、隣のドアは風呂場だ。ゆえは亨を部屋へ案内する。彼は部屋のあちこちに忙しなく視線を巡らせていた。開き戸を開ける。亨が戸口で立ち止まった。
「え、古……」
「そうですか?」
「物置じゃん」
「いや、でも、布団もテーブルも置けますよ」
戸を開けて正面に見えるガラス戸からは十分に陽が差し込み、室内を明るく照らしている。部屋の隅に畳んでいる布団も、天気のいい日は窓辺に置いておけば湿気が飛ぶ。部屋の真ん中には真四角の白いローテーブルがあり、他の家具は本棚にしているカラーボックスのみだ。衣服や雑貨類は押入れに収納できるくらいしかない。
「畳とか現代じゃなくない?」
「温かみがあっていいですよ?」
一面に広がるくすんだ白茶色の畳に目を滑らせながら、亨は口を開けっぱなしにしていた。医者家系だという亨の家を見たことはないが、今の反応から察するに、ゆえとは次元の違う豪勢な家で豊かな生活をしていることが分かった。
「座布団くらいはあるので、嫌でなければ休んでいて下さい」
テーブルに一辺に敷いてある潰れた長座布団を指し、安心させるように微笑むと亨は思いのほか素直に、しかし平均台を渡るような慎重さで進み、そこに腰を下ろした。
「少し待っててくださいね」
「貧血……動いて大丈夫なの?」
「大丈夫みたいです。駄目になったら横になりますから」
「そうか」
ゆえは戸を開けたまま台所へ向かった。小ぶりなアルミ鍋を火にかけ、黒地の急須に緑茶の茶葉を多めに入れる。そして湯が沸く間に冷蔵庫からタッパーを取り出し、電子レンジにかけて、中身を二つの小皿に分けて乗せた。盆に皿とフォーク、湯を入れた急須と湯飲み茶碗を乗せ、部屋へ戻る。
あぐらを掻いてテーブルにもたれていた亨が、ゆえに気付き背を伸ばした。
「もしよろしければ、一緒におやつを食べませんか?」
テーブルを挟んで対角の位置に膝をつき、急須を傾け湯呑に中身を注いだ。途端に熱い湯気が立ち上る。亨の前に皿とフォーク、淹れたての緑茶を並べ、自分のところにも同じように配置した。
「これは、ホットケーキ?」
未確認生物を見たときのように顔を歪めて亨は人差し指を皿に向かって伸ばす。薄く丸い生地を四等分にしたそれは、確かにホットケーキに似ていた。
「これは『なべやき』というものです」
「なべやき? 聞いたことないな。ホットケーキの親戚か何か?」
「私の地元でよく作るおやつなんです。ぜひ食べてみて下さい」
ゆえが目元を緩めると、亨は不信感と疑心に塗れたような目で見返した。茶色の生地と言っても濃淡があり、まだら模様に見える。泥まみれの靴で踏みつけて薄汚れているような感じだ。ゆえは苦笑を隠せなかった。
「嫌だったら無理して食べなくてもいいので……」
言い終わる前に、亨はまるでピザでも持つようになべやきを掴んで、先端を口に入れた。頬を膨らませて咀嚼し、飲み込むと今度は濃いめに入れた熱い緑茶に唇の先をつける。ゆえはその思い切った一連の動作を見ながら、胸の中では今更ながら不安が膨らんでいた。お金持ちの若いお医者様にこんな粗末なものを食べさせてしまって申し訳ない。何て身分不相応で恐ろしいことをしたんだろう。口に合わないと言われても仕方が無い。
夜勤明けの眠気と疲労、体調不良が一気に押し寄せてきて、再び眩暈がしそうになった。
ゆえが後悔に苛まれ、重い頭を下げているうちに、亨は唇を舐め「案外うまいな」と呟いた。
「これ、ゆえさんが作ったの?」
亨の問に、ゆえが顔を上げる。眉尻を下げていることに気付いた亨が分かりやすく顔を顰めた。
「食べたことなかったけど嫌いじゃなかった。ゆえさんは料理が上手なんだな」
「あ、そんなことは……。いえ、ありがとうございます」
異性に褒められたのなんていつぶりだろう。
ゆえは掌が湿り、鼓動が早くなるのを感じて、気を紛らわすようにフォークを手に取った。
なべやきは小麦粉と水を混ぜ、そこに黒糖を混ぜて焼いた簡単で節約になるおやつだ。黒糖のこくある甘さが癖になるし、塊になっているところは甘味がじゅわっと溶け出て、頬も一緒に溶けそうになる。膨らし粉が入っていないので触感はホットケーキとは違いモチモチとして密度が高く、おやつと言えども軽食くらいの満足感が得られる。
一足先に食べ終えた亨が、「ごちそうさま」と手を合わせる。テーブルの上で軽く腕を組み、ゆえの食事の様子を観察するように見てくるので、目を合わせないように顔ごと視線を逸らした。
「食べるの好き?」
「え?」
「何かずっとニコニコしてるからさ」つやつやで
「そうですか……?」
ゆえは思わず左手で頬を押さえた。
「唇甘そうになってる」
下唇に舌先を這わせると、確かに黒糖の味がした。頬杖をついた亨の茶色い瞳がゆえを追跡するのを居心地が悪く感じつつ、空になった皿を盆に集める。片付けてきます、と立ち上がりシンクの前に立つと、膨らんだ風船の口を離したように溜息が漏れた。ひそかに深呼吸を繰り返す。
暫くして、再び戸を部屋に入った。
「あれ」
一瞬、亨が消えたと思った。先ほど頭があった場所にいなかったから。
しかしすぐに見つけた。というか最初からちゃんと見えていた。長座布団の上に体を伸ばして横になっている姿が。
ゆえは忍び足で近付いて。彼の腰のあたりにしゃがみ込み、その端正な顔を覗き込んだ。長い睫毛の下では隙間が無いほど瞼が閉じられ、規則的で穏やかな寝息が聞こえてくる。乱れた栗色の髪が陽光の下で輝いている。確かに眠っている、
このままではよくない気がする……。
ゆえの本能がそう警告を出していた。不測の事態に、緊張で気道が狭窄し呼吸が乱れそうになるのを我慢しながら、思いきって亨の肩を触る。骨ばっていて筋肉の硬さがあって、自分のものとはまるで違う感触に心臓が跳ねた。
瞬間的に手を引っ込める。それでも亨は身動ぎ一つしない。顔が熱い。
今度は手を触ってみる。患者にも触れる機会はあるし、普段他人が触ることの無い体幹に近いところよりは気軽だろう。上を向いて脱力している掌に、自分のものを重ねる。その手のぬくもりと感触には覚えがあった。大きくて、少しだけ乾燥していて、温かい。間違いなく触れたことがある。
いけないと思いつつ、ゆえは亨の掌の凹凸や皺を、指先でなぞるように撫でた。膨らんだ関節、硬い指先、少し伸びた爪の丸み。
不思議な感覚だった。美しいビスクドールに命があるのか確かめようと手を伸ばしたくなるような、多分それに似ている。秒針が進むたびに、罪悪感が雪のように積もっていく。
ゆえは小さく息をついてから立ち上がり、先ほどまで食事をしていたところに座り直した。カラーボックスから文庫本を取り出し、栞を挟んであるページを開く。五ページほど捲ったところで忘れていた眠気がじわじわと脳内を浸食していく。
どうしようとどうでもいいが共存する。
彼の手の感触が指先に残っている。
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