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天使のような男
──少女はその日、魅入られた。
カビとホコリの匂い。激しい雨音は暗く冷たい室内の静けさをより一層濃くする。所々小さく捲れた床の木材が17歳前後の少女の肌を刺す。動く気力もなさそうな少女は床に寝転がったまま鬱蒼とした目を天井に向けていた。
ボロボロに薄汚れた着衣は少女の肌の酷い傷たちを覆い隠すことすらできていない。
時折鳴る雷に合わせ、お世辞にも綺麗とは言えない建物の隙間から光が入り室内が照らされる。
「ころして」
ぽつりと少女が呟いた瞬間、ドアをノックする音が室内に響く。激しい雷雨にも関わらず、その音は少女の耳に鮮明に届いた。痛む体に眉をしかめながらドアへと目を向けると、僅かに声が聴こえる。
(歌……?)
何かに誘われるように少女は痛む体を起こし、ドアへと近づく。ドアノブへと手を触れた瞬間、聴こえていた歌声は止まった。思わず開けようとしていた手も止まる。
「ここを開けて」
ドア越しに優しく諭すような男の声が聞こえ、少女は一歩後ずさる。それに気づいたのか否か、男はさらに優しく声をかける。
「キミの力になりたいんだ。大丈夫、痛いことはしないよ」
心をくすぐられるような甘い囁きを唱える男の声に少女は口をキュッと結び、自身の胸元をギュッと掴む。
「なにを捧げればいいの」
その言葉に男は一瞬驚いたように黙ると、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「僕の『華』になってよ」
優しさを乗せた声はどこか艶っぽく少女の鼓膜を掠めた。
一度離したドアノブを掴み、少女はゆっくりとそのドアを開く。
酷い雨風が少しずつ室内に入りこむ。少女はそんなことも気にせず、目の前の男を見上げた。
美しいブロンドの髪は雨で濡れ、伝う雫が男の白い肌を滑る。魅惑的で鮮やかな、宝石のようなブルーの目は少し驚いたように開かれていた。
しかし、少女を見つめた男の形の良い綺麗な唇は、次第に笑みを浮かべていく。
「名前を教えて」
天使のように美しい男の問いに、少女は口を開いた。
「フローラ……フローラ・ポージー」
一瞬、妖しく男の瞳が光る。鋭く捕らえるような眼光を少女は見逃さなかった。
けれど、例えこの男が何者であろうと、少女──フローラにはもうどうでもよかった。
「フローラ、いい名前だ。美しい君にピッタリの、ね」
男の言葉に怪訝そうにするフローラ。
「嘘言わないで。嘘つきは嫌いなの」
フローラの言葉にキョトンと不思議そうに小首を傾げる男。
「嘘?僕は嘘はつかない」
男は言葉を続ける。
「だってほら、君はこんなにも美しい」
途端にフローラの周りに美しい光の粒子が舞い始める。
集まった光たちはフローラの肌の傷を癒やし、傷んだ髪に輝きを取り戻させた。
「さぁ、美しいお嬢さん。僕の『華』になってよ」
天使のように微笑んだ男は、フローラに甘く囁く。
「……、名前を教えて」
思わず頷きそうになるのをグッと堪え、フローラはそう口にした。じっと男を見つめ返すと、その目は僅かに驚いたように開かれる。それを見て、フローラは更に続けた。
「嘘はつかないんでしょう」
それを聞くと、男は一瞬呆気に取られたようにきょとんとすると瞬く間に口元の笑みを深めた。
「あぁ、そうだね。嘘はつかない。君の言うとおりだ」
クスクスと、楽しそうに笑う男はフローラを嬉しそうに見つめた。そして彼女に近づき、そっと耳元に口を寄せる。
「ルシエル。ルシエル・ドゥ・エリュシオン」
フローラの鼓膜を揺らす、その甘く魅惑的な声。
囁くようなその仕草にフローラの鼓動は思わず高鳴る。
「これが僕の名前」
そう告げると、男は流れるようにフローラと目線を合わせる。フッと笑みを浮かべるその姿は誰がどう見ても麗しい天使のよう。
「さぁ、名前を呼んで」
誘われるまま、気づけば少女はその名前を口にしていた。
「……ルシエル」
天使のような男──ルシエルは、妖しく笑みを深めた。
少女はその日、魅入られた。
天使のように美しく、気高い、──悪魔に。
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