育児は育自

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 生まれてすみません。  なーんて、今さら私は育ててくれた両親に謝罪するような、殊勝な心がけはこれっぽっちももっておりませんですよ。  高校中退(すなわち最終学歴は中卒)、ニート&子ども部屋おじさん歴は三十有余年。  五十歳にしてチビ・デブ・ハゲの三拍子に、真性童貞という負のタイトル総ナメの私でございますが、両親の教育がまずかったわけではなく、自分が選んだ人生でございますから。  わが生涯に一片の悔いなし!  北斗の拳のラオウと同じような、澄んだ湖みたいな心境であります、はい。  だいたい、今イケていない自分を両親の教育のせいにするなんて、おこがましいにもほどがあるのですよ。  児童虐待やネグレクトを除き(これらは犯罪でございますから)、両親にごはんを食べさせてもらい、高校大学とスネをかじっておきながら、結果がうまくいかないと両親に責任を転嫁する……ダメなのは本人の失敗だと認めるのが筋でございましょうよ。  大人になって成功するも失敗するも、本人次第です。そこに、成人まで養育した両親は関係ありませんですよ。  どっかの「意識高い系」の母親なんかが、「育児は育自」なんて標榜して、自慢げにSNSに育児自慢を投稿しているのを見ますと、吐き気をもよおすのでございますよ。  なんで、子どもの成長を「自分の手柄」にして喜んでいるのですか?  「育児は育自」という造語の意味は、「育児をしている自分も、育児で成長させてもらってます!ありがとう」って感じでしょうか。  いいですか。子どもと親は、別人格なのです。  子どもの成長で、自分が気持ち良くならないでくださいよ!  親は育児をしながらでも、成長したいなら独自の努力をしないと意味はないのです。  読書するとか、音楽を聴いて感受性を豊かにしたり、資格試験の勉強をしたりして実学を学ぶのもいいでしょう。  でも子どものオムツを替えたり、食事を作るのは育児の技能や要領を向上させるだけであって、親の成長というより義務ですよね。  子どもが成長した後のお受験とか、習い事の押しつけなんかは、どこまで子どものためを思っているか疑義を挟みたくなりますね。  結局優秀な私学に、子どもを通わせている自分。  優れた特技をもっている、子どもの可能性を引き出した自分。  おしゃれな洋服を着せて、かわいい子どもを連れて歩いている自分。  自分、自分、自分……。  結局「育自」の正体は、子どもを自分の所有物、しかもペットやアクセサリーみたいに偽装して、世間の大多数に対して自慢する悪行なのではないでしょうか。  かあぁーっ、これは悪趣味の極みでございますですよ!  自分の子を育てるということは本来無償の行為のはずであり、自尊心を満たしたり損得勘定で行うものではないのです。  だから子どもが思い通りに言うことを聞かなかったときにヒステリーを起こしたり、虐待に走るのでございますよ。  私を見てください。  両親からの期待を、裏切り続けて半世紀。  世間の白い目にさらされ続けて三十有余年。  それでもマイスタイルを貫き通しておりますですよ。  両親など、  「うん……まあね……おまえはもうそれでいいや」  と私を最大限尊重する評価をしてくれているではありませんか。  私は感謝とともに、心のアンケート用紙に「尊敬する人・両親」と記入しております。  「おまえは、それでいいや」  なんという慈愛に満ちた言葉でございましょう。  それは「おまえは、あるがまま人生を謳歌するのだよ」という子育て修了の究極形だからでございます(そんなことはない)。  私の両親は、人前で私を褒めたことがありません。きっと独自の道を歩み続ける私を一個人として認め、誇らしく思いながらも謙虚さを忘れない姿勢なのでしょう(そんなことはない)。  嗚呼、私はなんと幸せ者なのでございましょう!  両親の玩具やアクセサリーにされず、苦悩しながら自己の内面を磨きつづけた日々は、ツラいこと多かったですが、報われたように感じますですね(そんなことはない)。  それでは、己の満ち足りた成長を祝し、こんなに私を立派に育て上げてくれた両親への感謝とともに、深夜の大盛りカップラーメンを一気食いいたしましょうか。  いただきまあぁーす!                   終
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