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【episode2】
【episode2】
願いも虚しく《研究室A》にこもりっぱなし、事務仕事の繰り返しがひたすら続いた。外の景色を見ることができないため、時間や日にちの感覚は麻痺しつつある。部屋にある時計だけが明確な日時を教えてくれた。
この研究所へ来てから既に十日経っている。
天馬や麻里奈は相変わらず何の仕事をしているのか不明。〝バシクル〟という薬品についてのファイルを見て以来、研究に関わるものに触れることもできていない。
十日も経つと、天馬や麻里奈との会話も苦にならなくなった。二人の方も徐々に態度が柔らかくなっているように思う。
朝の研究室へ出向くと、麻里奈が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。「おはようございます」と会釈する。その返事代わりとでも言わんばかりに、マグカップを突き出された。〝洗っておけ〟という合図だ。
麻里奈は絶対に食器を洗わない。
今はその片付けも私の仕事だ。
カップをシンクへ運ぶと、後ろから声を掛けられた。
「あんた、今日は何するの?」
「毎朝天馬からの指示を受けて動き始めるので。まだ分からないです」
「ならちょうどいい。天馬は上のヤツと合流してていないから、あんたを連れてってあげる」
「連れていくって……どこへ?」
「実験専用の部屋さ。あんたもそろそろ知っておくべきだと思うからね。ここでやってる実験について」
ついに、研究所について新しい情報を得られるチャンスが来た。しかしその興奮を悟られないよう、冷静に「そうですか」とだけ答えておいた。
「天馬は『夏希を他の場所に連れていくな』なんて言うけどさ。いつまでも事務仕事ばっかやらせてないで、さっさと新薬の研究に駆り出せばいいと思ってたんだよね。あんたが何を考えてたって逃げることは不可能なんだから」
麻里奈の浮かべる笑みは、カゴの鳥状態の私を嘲笑っているようだった。
二人で廊下へ出ると、麻里奈の部屋を通過した先を曲がった。正面にエレベーターがある。その前に立つと、麻里奈は下へ行くボタンを押した。エレベーターが到着し揃って乗り込む。
大人四人ほどでいっぱいになりそうな狭いエレベーター内。設置されているボタンには《B1》から《B10》までの表示があった。研究所は地下にあるようだ。
現在地は《B3》。
最上階が《B1》だろうか。
ドアが閉まる。
麻里奈はボタン《B1》の上にある、数センチ四方の黒いスペースに人差し指をあてた。指紋認証システムだろう。認証が終わると、次は《B6》のボタンを押した。エレベーターが動き出す。
《B6》にも普段と同じ景色が広がっていたが、ドアの数は少ない。歩きながら数えていくと、真っ直ぐ伸びる廊下には三つしかドアがなかった。廊下の突きあたり手前、三つ目のドアの前で麻里奈が立ち止まる。ドアには《実験室A》と書かれていた。
室内は《研究室A》と同程度の広さだった。設備は似ているが、加えてガラス張りの部屋――〝ガラス部屋〟とでも呼んでおこう――が隣接している。部屋と言っても、何もないただの空間。ガラス部屋の前にはテーブルが並んでおり、モニターや資料が置かれている。
テーブルでは二人の男性研究員が作業していたが、麻里奈を見ると、手を止めて立ち上がった。男性たちが「お疲れ様です」と声を揃える。
「《D.H.》の準備はできてるの?」
「はい。すぐに始められます」
麻里奈の指示で、男性研究員二人がガラス部屋の中へ入っていった。ガラス部屋の奥にも一つドアが見える。研究員たちはその向こうへと姿を消した。
気になったのは《D.H.》という単語。以前天馬が私を追い出そうとしたとき、麻里奈が口にしていた言葉だ。あれ以来、一度も耳にしていなかったが……。
「――夏希」
麻里奈に呼ばれ我に返った。
「あの、これから行う実験というのは?」
「《ステルリン・バージョン6》の効果を見る実験。あんたは見てるだけでいいよ」
「ステルリンって……前にも実験したと言っていた薬ですよね? あなたがその話をしたあと、天馬から〝脳に影響を与える薬〟だと聞きました。一体どんな影響を――」
言葉を遮るように、ガラス部屋の奥のドアが開いた。出てきたのは研究員一人だけ。その後ろに女性がいる。女性は白衣姿でなく、黒いシャツにジーンズというカジュアルな格好をしていた。彼女一人を中に残し、研究員がこちら側へ出てくる。彼はドアをロックし、麻里奈へ目を向けた。
「準備完了です」
「分かった。脳のチェックを」
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