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天馬はこれ以上〝目標〟について追及することなく、「さっきのことだが」と話を切り替えた。
「〝組織の操り人形〟などと、他の研究員の前では口にするなよ」
「もちろん分かってる。でもあなたは? 怒ったりしないの?」
「俺が何を言おうと、夏希の気持ちが変わるわけじゃないだろ」
「それでも嬉しかった。私――」
監禁されている中で、天馬と接するときだけは冷静でいられた。心を許せる人間がいない中、彼と話しているときだけは恐怖を忘れられた。残虐な悪夢から立ち直ることができたのも、天馬の与えてくれた「俺たちと同じ部類の人間になれとは言わない」という発言のおかげだったと、今なら思える。
「私にとって、あなたの存在は支えになっているのだと思う。ありがとう」
「お前から〝世界〟を奪った組織の人間に礼を言うなど……馬鹿げていると思わないのか」
「私が勝手に言いたいだけだから。嫌なら聞き流してくれていいの」
天馬は「そうさせてもらう」と言った。
いつもどおり色のない表情だが、どこか柔らかく感じられる物言いだった。
+ + +
翌日も朝から《研究室E》にこもって仕事へ取り組んだ。一人で黙々と作業に打ち込み、ドアをノックされたのは午後三時過ぎ。天馬が様子見に来たのだろう。すぐにドアを開けたものの、廊下に立っていたのは麻里奈だった。
「今から実験に行くよ」
「……どうして私が? 今は自分に与えられた研究があるのに」
「一緒に来るはずだった研究員が、胃が痛いとか言って寝てんだよ。数人声を掛けたけど他にやることがあるって。使えない連中だ」
あの惨劇を見せられた日以来、頭の隅へ追いやってきた《D.H.》の実験。また連れて行かれることになるとは思っておらず、動悸がしてきた。
麻里奈に案内されたのはステルリンのときと同じ《実験室A》。あの惨劇が浮かんでこないよう「あくまで麻里奈の手伝いだ」と頭の中で言い聞かせた。
「あたしは奥の部屋、夏希はこっち側で待機ね。関連プログラムの使い方はファイルに挟んであるから、あたしが準備してる間に確認しとくように。何かあったらマイク使って呼んで」
言われるがままモニターの前へ座る。麻里奈はガラス部屋へ入り、さらにその奥に見えるドアの向こうへと姿を消した。このガラス部屋の中で何人の命が奪われたのだろう――ふとそんな疑問が脳裏をよぎり、首を横に振った。余計なことを考えてはいけない。
実験に必要なプログラムの操作方法を読んでいると、スピーカーから『夏希』と呼ぶ声が聞こえた。
『今回の新薬は気体タイプのものだから。これから《D.H.》を部屋に入れて薬を流し込む。あんたはモニタリングと記録をすんの。曝露した際の瞳の動きも確認したいから、カメラはズームにして顔を追うように』
「分かった。……ちなみに、血を見るようなもの?」
『今回は〝第一〟だから、はっきり言って何が起こるか分かんないよ。失敗なら失敗、成功なら成功で違った結果になる』
何が起こるか分からない……。
深呼吸し、心の準備を整えた。
モニター画面に注目して、できるだけ中を見ないようにしなければ。
奥のドアが開く。
そこから現れたのは二十代前半ほどに見える女性だった。瞳は虚ろで青ざめている。
『こっちは薬の分量を調節しながら、カメラを通して《D.H.》の様子を見てるから。夏希は異常が出たら知らせて』
モニターに映し出されているのは、実験台となる女性の脳波や心拍。心拍はやや高いものの、脳波に異常は見られなかった。
『それじゃ、新薬を入れるよ』
ガラス部屋の天井にある小さな蓋が開き、ガス漏れのような音がし始めた。中にいる女性はその音に気付いていないのか、壁際に立って震えている。
心を痛めている場合じゃない。
私は私に与えられた作業を。
録画用の機材へ手を伸ばし、録画ボタンをオンに。カメラのピントは女性の顔に合わせ、私自身の視線はモニターへ。脳波の変化を見守る。
「――麻里奈!」
呼んだ瞬間、ガラス部屋の中から狂ったような奇声が聞こえた。女性が叫びながら床に転がっている。彼女は両手で髪を引っ張り、足をばたつかせ、目を見開いていた。脳波がどんどん弱まっていく。
「いぃだぁぁ――いぃっあぁぁ!」
悲痛な叫びがこだまする。
その声は「痛い」と言っているようにも聞こえた。すがるような思いでマイクを握り締める。
「ねぇ、どうすればいいの!?」
『意識障害か』
冷静な声で聞こえた返事に苛立つ。
女性は激しく頭を掻きむしり、ぐちゃぐちゃに抜けた髪が床に散乱していた。舌を噛んだのか口元に血が滲んでいる。叫び声が止み、代わりに身体が痙攣し始めた。
「彼女、意識を失いそうよ!? 最悪の場合脳死してしまうかも――!」
『こりゃダメだね。浄化装置を作動させるか』
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